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古本夜話172 麻生久『黎明』、大鐙閣、『解放』

前回の新光社に関する一文を書き終え、新光社とその出版物に対するこれ以上の言及はもう少し資料を集めてからと考えていた。しかしその後で、浜松の時代舎へ出かけたところ、またしても大正十三年に新光社から出された麻生久の『黎明』を見つけてしまったので、続けて書いておくしかないだろう。それにこれは宗教小説ではなく、社会主義、労働運動小説とよんでしかるべきであり、新光社の宗教にまつわる出版物と異なる側面を見せているからでもある。

麻生について、『日本近代文学大事典』では小説家、『近代日本社会運動史人物大事典』では社会運動家の側面から、それぞれ立項され、また『麻生久伝』(刊行委員会、昭和三十三年)も死後に刊行されているので、それらのうちの『黎明』と関連するところを要約してみる。麻生は明治二十四年大分県に生まれ、三高を経て、東京帝大法科卒業、大正六年に東京日日新聞の記者となる。そのかたわらで、ロシア革命に強く影響され、社会主義研究の木曜会を開き、東大の新人会創立に参加し、鈴木文治の友愛会に入り、吉野作造たちと学者思想家の黎明会を結成し、さらに同八年に大鐙閣から総合雑誌『解放』の創刊に尽力し、編集を担ったりもした。

日本近代文学大事典 近代日本社会運動史人物大事典

麻生の『黎明』はいずれも大正十二年にやはり新光社刊行の自伝小説『濁流に泳ぐ』『生きんとする群』に続くもので、大正の新興文学としてよく読まれたという。入手した『黎明』は初版だが、その巻末広告において『濁流に泳ぐ』は二十版、『生きんとする群』は十二版とあり、ベストセラーに近い売れ行きだったとわかる。ただ三部作のうちの最初の二作は未読なために時代背景を確定できないが、『黎明』は麻生自ら「はしがき」で述べているように、大正七年から八年を舞台にしている。それはまさに「知識階級」から「労働者階級」へと続いていった社会運動の黎明期にあたり、その主たる要因は第一次大戦、ロシア王朝の崩壊、ドイツ革命といった世界的大勢によるもので、それを受けての日本における資本主義の急速な発達と物価の急激な上昇は、多く生み出された労働者階級と社会全体を不安に陥れていた。麻生は「はしがき」で書いている。

 大正七八年頃には既に、日本の社会にはさきに述べた世界的大勢たる社会運動の勃興の影響を受け容れるべき下地が立派に出来上つてゐたのである。大正七八年に於て日本に社会運動の黎明期を現出したのは決して偶然ではない。米暴動の勃発したのは大正七年の夏であつた。
 それは恰かも夢の様な時代であつた。新らしい世界思潮にめざめた若者達は、其激しい潮の流れに棹さして、止まるところも知らぬやうに進んで行つた。其勢ひは堰を決した水流が、滔々として流れ出る様なものであつた。先駆して其流れに棹さした青年達は、声高らかに叫んだ。
 自由平等の理想社会!
 彼等は、其言葉に酔ひ、其文字に熱狂した。
 さうして其時代は彼等の夢みる理想の社会が容易く明日にでも実現し得るやうに信ぜられてゐた時代であつた。

麻生はこの「夢の様な時代」における「知識階級」の社会運動を、『黎明』という小説に描き出そうとしている。しかし著者も「事実に根拠し」、「現はれて来る人物も実在の人が多い」と断わっているように、小説仕立てではあっても、ほとんどがノンフィクション的記述と描写に覆われ、フィクションとの境界がどこにすえられているのかが曖昧に処理されている。これはこの時代の社会、政治運動の記述や携わる人物に関してもカモフラージュ的意味をこめているからなのだろうか。そのひとつの例として、『黎明』の登場人物たちは全員がアルファベットのイニシャルで記され、この作品を一人称でも三人称でもないイニシャル小説とよんでみたくなる。このような奇妙な小説形式が許されたのも大正時代ならではのことかもしれない。

だがそれでいて、登場人物たちはほとんどが特定できるように描かれているので、主要人物だけでも類推してみると、Aが他ならぬ著者の麻生であり、O=岡本守道(黒田礼二)、N=野坂参三、S=佐野学、T=棚橋小虎、Y=山名義鶴、Y博士=吉野作造、F博士=福田徳三だと見なせる。

そして麻生の経歴に挙げておいたように、『黎明』の第一篇は高校、大学の友人たちと結成する木曜会を中心にして語られ、第二編は吉野作造と浪人会の立会演説から立ち上げられた黎明会、それに続く『解放』の創刊などが物語のコアを占め、その後に労働者階級の黎明期が台頭してくるところで、この四百ページを超える『黎明』は終わっている。

熱に浮かされたような物語展開と筆致、その中をイニシャルで動き回る登場人物たち、おそらくそれは『黎明』のみならず、前二作も同様だと考えられる。またそのような社会運動にまつわるニュアンスは賀川豊彦の『死線を越えて』にも共通するものであり、そこに大正時代における宗教と通底するイメージをうかがうことができる。そうした意味において、『黎明』に記されているように、「彼等は、たゞまつしぐらに、高くかき鳴らされる世界思潮の浮き立つやうな進行曲に誘はれて、進行して行つたのである。」
死線を越えて

しかしその後に待っていたのは社会大衆党の代表者となりつつも、社会運動の対極にある軍部や国家主義への傾斜であり、それは麻生の昭和の別の物語になろう。

だがそれにしてもよくわからないのは大鐙閣、『解放』、新光社との関係である。麻生の『濁流に泳ぐ』の一部は『解放』に掲載されているようだ。大鐙閣が天佑社と並んで、大阪発祥にして東京の新興出版社で、両社とも関東大震災によって出版事業を休業、断念するに至った事実を、拙稿「天佑社と大鐙閣」(『古本探究』所収)でふれておいた。ただ新光社にしても、関東大震災で打撃を受け、大正十五年に実質的に破綻しているわけだから、麻生久の三部作は『解放』創刊後の企画と考えられる。『黎明』において、『解放』の創刊を推進したのは「D書店の支配人X」となっているが、『麻生久伝』の記述からして、大鐙閣の東京支配人面家荘吉だったと考えられる。この面家、もしくは最初の編集発行人田中孝治が、新光社の仲摩照久とつながっていたのではないだろうか。

古本探究

それゆえに本連載162でふれた誠文堂の円本『大日本百科全集』の企画に左翼人脈が流れこむラインが形成されたようにも思われ、大鐙閣、新光社、誠文堂とリンクしていったのではないだろうか。

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