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古本夜話180 『文藝春秋』創刊号、田中直樹、小峰八郎

前回、大正時代末から昭和初期にかけてのリトルマガジンと同人雑誌にふれたが、そのうちの一誌だけ創刊号を持っているので、それについて書いておくべきだろう。しかもそれは、これも同様に言及したばかりの鈴木氏亨も同人に加わっていた『文藝春秋』であるのだから。

といって、この『文藝春秋』創刊号は大正十一年に出されたものではなく、昭和三十年十一月号の『文藝春秋』五百号記念としての付録のために復刻された一冊である。

だがあらためてこの創刊号を見てみると、現在の『文藝春秋』と比較して、その異なる小さな判型と薄いページ数に驚きを覚える。判型はB6判で、わずか二十八ページしかなく、奥付に発行所は文藝春秋社とあるものの、その住所は菊池の自宅で、表紙には発売元春陽堂と表記されているのだ。またそこには「侏儒の言葉」を寄せている芥川龍之介を筆頭に、菊池寛、川端康成、横光利一、直木三十二などの十八人が顔を揃えている。
文藝春秋(2012年3月号)

表紙をめくると、菊池寛による「創刊の辞」が巻頭の四段組ページの一番上に掲載されている。これは大正時代の文学と出版状況における菊池の私的雑誌創刊宣言としてよく引用されたりするが、ここでもそれを掲載しておくことにしよう。

 私は頼まれて物を云ふことに飽いた。自分で、考へてゐることを、読者や編輯者に気兼ねなしに、自由な心持で云つて見たい。友人にも私と同感の人々が多いだらう。又、私が知つてゐる若い人達には、物が云ひたくて、ウヅゝゞしてゐる人が多い。一には自分のため、一には他のため、この小雑誌を出すことにした。

「気まぐれに出した雑誌」と菊池がいっているように、集められた原稿は同時代の文学や社会に関するゴシップも含めた、随筆批評といった趣と色彩が強く感じられる。「荷風の偉さは助平な芸術家である点にある」(中戸川吉二「荷風のこと」)とか、武林無想庵は「あさましや色男然として人の女房の紅裙に纏綿して」(今東光「放言暦」)とか、あるいは川端康成のロリコン趣味の告白(「林金花の憂鬱」)、横光利一による辛辣で軽妙な現代作家の採点(「時代は放蕩する」)などはそのようなニュアンスにあふれ、確かに菊池のいう「自由な心持で云つて見たい」一文を形成している。

そしてこれは無署名だが、巻末に「文壇七不思議」なるコラムがあり、そのうちの三つに「倉田百三がいつ迄も死なない事」「『新約』ウソ八百版も売れる事」「死せる親鸞生ける梧平を養ふ事」といった大正時代の宗教書ブームを皮肉った言葉が記されている。念のために補足しておけば、それは倉田が病の中で心の中に墓を建てたいとの思いで書いた『出家とその弟子』が売れ、ベストセラー作家となって次々に本が出されていること、本連載174でふれた江原小弥太の『新約』ベストセラー騒ぎ、石丸梧平が『人間親鸞』のベストセラー化で有名になったことを、それぞれ風刺している。

出家とその弟子

今から見れば、『文藝春秋』創刊号の見かけは貧弱であるにしても、このようなゴシップ的随筆批評は読者に好評をもって迎えられ、創刊号三千部は完売し、第二号は四千部、第三号は五十六ページとなって六千部、第四号は一万部の大増刷であった。そして関東大震災をくぐり抜け、大正十三年新年号は一万七千部、同十四年新年号は二万六千部、同十五年新年号は一挙に十一万部へと躍進の道をたどった。ここに大正時代の雑誌と出版状況の一端がうかがえる。
なお坪内祐三によって、初期のゴシップ記事を集成した『「文藝春秋」八十年傑作選』(文春)が編まれ、そこには鈴木氏享による「文藝春秋十年史」も収録されている。そして昭和に入り、『文藝春秋』は現在まで続く総合雑誌の道を歩んでいくことになる。
>「文藝春秋」八十年傑作選

これらの『文藝春秋』初期事情と鈴木氏亨のことを確かめるつもりで、久し振りに『文藝春秋三十五年史稿』『文藝春秋七十年史』を開いてみたのだが、思いがけない発見があったので、それらのことも書いておきたい。なおその前に記しておけば、鈴木氏亨は『文藝春秋』創刊以前に雑誌記者として菊池家に出入りし、編集同人に名を連ね、秘書や支配人として菊池に従い、重役となり、『菊池寛伝』(実業之日本社、昭和十二年)を著わし、戦後の昭和二十三年に死去している。

文藝春秋三十五年史稿

これらは『文藝春秋三十五年史稿』によっているのだが、この中であらためて目を引いたのは、口絵写真の『文藝春秋』草創期の人たちである。そこに鈴木の姿は見えていないけれども、意外な人物を見出すことができる。それは田中直樹と小峰八郎である。その他にも気になる人物がいるけれど、それはまたの機会に譲ろう。

田中は、本連載39 などで言及した『犯罪科学』や『犯罪公論』編集長、後者と小林秀雄たちの『文学界』を刊行していた文化公論社の創業者、『モダン・千夜一夜』(チップ・トップ書店、昭和六年)の著者でもある。彼は菊池の周辺にいて、武俠社を経て、『文藝春秋』を手伝い、四六書院に入っている。鈴木が四六書院の「通叢書」の一冊として『酒通』を出しているのは、田中との関係からなのかもしれない。その後の昭和十年に田中は『犯罪実話』の編集長になっている。この版元は実用雑誌社で、経営者は実用書や大衆小説などを刊行する奥川書房や釣之研究社も営む奥川栄だった。実はこの奥川書房が意外なところに出てくる。それは溝口敦の『池田大作「権力者」の構造』(講談社+α文庫)においてであり、そこで奥川書房は大道書房と並んで、戦後に創価学会二代目会長となる戸田城聖の出資した小出版社のひとつとされている。

池田大作「権力者」の構造

以前に大道書房について書いているが、大道書房は戸田が同じ北海道石狩郡出身の子母澤寛を有して立ち上げた出版社であるから、奥川書房もまた同様に思われたのではないだろうか。これらの奥川書房事情によって、その『犯罪実話』編集長の田中も北海道出身と伝えられてきたのであって、「神保町系オタオタ日記」の調査による山口県出身が正しいと、ここで判断できよう。

さてもう一人の小峰八郎は、前回ふれた春陽堂の『新小説』の発行人に名を連ねていた人物である。彼もまた菊池との関係から『文藝春秋』の草創期の一員に加わったと見なせるだろう。そればかりか、『文藝春秋三十五年史稿』の「年誌」の大正十五年のところに、「春陽堂より独立した小峰八郎に『文藝春秋社出版部』という名称を貸与す」という一節が見つかる。

これでようやくひとつの謎が解けたように思った。この「文藝春秋社出版部」の本はかつてよく見かけたが、どうして「出版部」なる言葉が入っているのか、何となく疑問を覚えてもいた。つまりそういう事情だったのだ。このことが判明してから、「文藝春秋社出版部」の本に出会いたいと願っているのだが、なかなか巡り合うことができない。それゆえその奥付を今一度確認していない。必要でない時にはすぐに見つかるのに、必要としている時には得てして見つからない、よくある古本の話になってしまった。

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