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古本夜話192 「ルーゴン=マッカール叢書」(論創社版)邦訳完結に寄せて  『図書新聞』(〇九年五月二三日)掲載

論創社版のエミール・ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」は七年かかって一三巻を刊行し、同時期に出版された藤原書店の「ゾラ・セレクション」の六巻などを合わせると、ようやく日本語で「叢書」の全二〇巻を読むことができるようになった。フランスにおける最終巻の『パスカル博士』の刊行は一八九三年であるから、完結後一世紀以上を経て、初めて邦訳が出揃ったことになる。近代翻訳出版史をたどってみても、多くの出版者や編集者、翻訳者や研究者が「叢書」全巻の刊行を夢見たと思われるが、『夢想』の一冊を除いて、ほとんどが大部の長編であり、翻訳の労力に加えて、莫大な制作費を必要とするために、それが実現しなかったと推測できる。

パスカル博士 夢想

しかし二一世紀に入ったとはいえ、新訳で「叢書」全巻を初めて読めるようになったことは訳者の一人として、とてもうれしいし、日本における新たな読者の出現や、日本近代文学へのゾラの影響についての研究の深まりを期待したいと思う。なぜならば、「ルーゴン=マッカール叢書」の時代は終わっていないどころか、ここに示された様々な物語の集積は、まさに現代を描いているといっても過言ではないからだ。また私もそれゆえに「叢書」の世界に引きつけられ、訳者となっていったのである。ここでは紙幅もないので、そのことだけを記してみよう。

私は九〇年代に、八〇年代になって成立したと見なし得る郊外消費社会についてずっと思いをめぐらしていた。戦後の日本社会は七〇年代半ばに第三次産業就業人口が五〇%を超え、消費社会化し、それとパラレルに進んだ郊外化によって、郊外消費社会が出現するに及んだ。具体的に言えば、全国各地の主要幹線道路沿いにロードサイドビジネス(駐車場付き郊外型商業店舗)が林立する風景に覆われてしまったことを指す。それらの土地はかつて田や畑だったのであり、農耕社会の風景が消費社会のそれへと急激に転化してしまったのだ。つまり表面的には豊かで便利な社会が、何もなかった郊外にも誕生したことになる。

しかし私は郊外を覆い尽くしていくその風景に違和感を覚えていた。それは何よりも、私は農村少年として育ってきたからだ。ロードサイドビジネスで埋まった道路はかつて田や畑が広がり、「往還」と呼ばれていた。「往還」は村から町へと通じる道で、いずれも小さなものではあるが、農耕社会と消費社会を分かち、両者の距離を物語っているようだった。この地方特有の強い風にさらされ、まだ舗装もされず、雨が降るとぬかるみ、定期バスの他には車もほとんど通らなかった。それが五〇年代から六〇年代にかけての「往還」の原風景だ。三〇年後にそこが郊外となり、全国有数のロードサイドビジネス開発地帯に変貌するとは、誰も予想していなかったであろう。

これは私だけの経験ではなく、高度成長期までの日本はそのような状況の中にあり、現在のような過剰なまでの消費社会のモードに染められておらず、今では全国共通になったその風景の出現もきわめて新しいものだったといっていい。しかし郊外の風景に象徴される農耕社会から消費社会への転換は欧米と比べて、異常なほどのスピードで進み、それはアメリカによるグローバリゼーションのモデルともなり、今やアジア全域を覆いつつあると思われる。

私はこの風景の転換はどこから始まっているのであろうかと考え続け、九七年に郊外の起源とその行方をたどった『〈郊外〉の誕生と死』青弓社)を上梓するに及んだ。実はこの過程で、ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」に突き当たったのである。まずは言うまでもなく『ボヌール・デ・ダム百貨店』であり、「叢書」の第一一巻として、一八八三年に発表されたこの作品こそは先駆的に書かれた消費社会小説で、まさに近代消費社会の始まりを描いていると実感し、どうして翻訳が出されていないのかと切実に考えさせられた。
この小説は百貨店を主人公とし、流通と消費を主題にしていて、近代商業小説の嚆矢であると同時に、この時代における大衆消費社会の幕明けを告げていた。したがって『ボヌール・デ・ダム百貨店』は消費社会の起源を克明に描いた小説として、現在と地続きで読むことが可能なのである。

〈郊外〉の誕生と死 ボヌール・デ・ダム百貨店

百貨店の出現によってもたらされた一九世紀後半の消費社会の実態、その光と影があまりにも生々しく描写されている。百貨店における商品の氾濫とその色彩の乱舞、バーゲンに殺到する消費者という群衆、百貨店の隆盛の背後で破産していく商店街の人々。特に百貨店によって廃業に追いやられる商店街の姿は、一九八〇年代以後の郊外消費社会の成立を受け、壊滅状態に陥っている日本全国の商店街の状況を彷彿させ、一世紀前の百貨店による流通革命が何であったかを露出させている。商品の大量仕入れと大量販売を通じて生み出される廉価、及びその高速回転操作がもたらす多大な利益、それらの消費は女性をターゲットとして設定される。ゾラはこの小説の終わりのところで、次のような一節を挿入している。

 ムーレの創造した百貨店は新しい宗教をもたらし、信仰心が衰え次第に来なくなった教会の代りを百貨店がつとめ、それ以後空虚な人々の心に入り込んだ。女性は閑な時間をムーレのところへやって来て過ごすようになった。かつてはチャペルの奥で震えおののき、不安な時間を過ごしたというのに。(伊藤桂子訳)

ゾラはまたそれが「美という天上の神を崇め、身体を絶えず再生する信仰」であり、百貨店はそのための「告解所や祭壇」だとも付け加え、消費社会を発展させる原動力にも注視している。

この『ボヌール・デ・ダム百貨店』だけでも「ルーゴン=マッカール叢書」は再発見、再評価すべきだと思いながら、あらためて「叢書」を読み進めていった。そこで第一五巻の『大地』に至ったのである。これは第二帝政下において変貌していくフランスの農村を描いた小説で、日本の高度成長期の農村の姿のようにも思われた。それにこの小説は畑の分割相続をひとつのテーマにすえていて、日本語の「たわけ」が「田分け」を語源にしていることから類推しても、日仏の違いはあれ、農村が抱えている問題の共通性を思い知らされた。しかもこの『大地』の舞台で、果てしもなく小麦の風景に包まれていたボース平野も、いくつかの研究が伝えるところによれば、農村の郊外化が進み、幹線道路はロードサイドビジネスの風景に覆われ始めているようなのだ。
大地

だからゾラは共時的に一方で消費社会を描き、他方で農耕社会を見つめていたことになる。それゆえにこの二作だけでも、私の問題と通底し、「ルーゴン=マッカール叢書」が日本の戦後社会と重なるようなイメージを孕み、迫ってきた。そのように読めば、第二帝政と高度成長期を含んだ戦後社会の共通性は、他の作品においても、具体的に言及できなくて残念だが、限りなく挙げることができるだろう。

これらのことがきっかけとなって、私は次第に「叢書」の世界にのめりこんでしまい、浅学と貧しい語学力にもかかわらず、一〇作を翻訳することになってしまったのである。それでも私訳のわずかな成果を付け加えれば、『大地』の翻訳は私の農村少年としての見聞や体験が色濃く投影され、風景や労働描写に関して、臨場感のこもったシーンを浮かび上がらせていると思う。

本来であれば、『〈郊外〉の誕生と死』の前編に属する一九世紀後半のフランスの百貨店の誕生から、二〇世紀前半のアメリカのスーパーの展開による消費社会化、戦後の郊外の膨張とロードサイドビジネスについて書くはずであったが、図らずも「叢書」の翻訳に没頭し、書きそびれてしまった。しかしそれはそれでよかったと思う。未邦訳の三作も含め、何とか「ルーゴン=マッカール叢書」を日本語で通読できるところまでこぎつけたわけだから、どうかこのような機会を得て、「ルーゴン=マッカール叢書」の読者が一人でも増えてくれますように。

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