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古本夜話193 大正時代における「ルーゴン=マッカール叢書」の翻訳

思いがけずにゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」について、続けて言及することができたので、この機会にもう少し「叢書」の翻訳史をたどってみたい。

本連載188で、フランス語からの初訳として吉江喬松による『ルゴン家の人々』を取り上げたが、実は大正時代に英語からの重訳で、訳者を木蘇穀、出版社を大鐙閣として、『血縁』と題され、刊行されている。これらのことに関して、以前にも「天佑社と大鐙閣」(『古本探究』所収)で論じているけれども、もう一度言及してみる。
古本探究

その前に訳者の木蘇について、『日本近代文学大事典』における立項を要約しておけば、明治二十六年富山県生まれ、大阪北野中学、三高、早大英文科に学び、様々な雑誌の編集者を経て、『万朝報』記者、『不同調』同人となり、新人生派を提唱する一員として評論を書くとある。また探偵小説や大宅壮一との関係も興味深いが、それらについては本連載で後述するつもりなので、ここでは省く。
日本近代文学大事典

その木蘇はゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」第一巻に当たる『血縁』の「訳者序」において、次のように述べている。

 この巻は(中略)あの膨大な「ルーゴン=マッカール叢書」(二十巻)の最初の巻であつて、既に日本に翻訳されて、広く読書界に膾炙されている「居酒屋」とか、「ナナ」とか、「金」とか、「歓楽」とか、「獣人」とか、「制作」とか、「僧ムーレの破戒」とかいう諸種の物語の発端をなすものである。例えて言えば、この大きい「ルーゴン=マッカール叢書」というものを一本の大きい樹木とすれば、この『血縁』は差し当り根であり、幹であつて、他の右に挙げたものを初めとして、他の十九巻残らずは枝であり、葉であるわけである。

この見解はきわめて正当なものであるばかりでなく、大正時代が「ルーゴン=マッカール叢書」翻訳の全盛期であったことを教えてくれる。しかもそれは『血縁』がそうであったように、フランス語からではなく、多くが英訳からの翻訳によっていた。その時代における「叢書」の翻訳タイトルと出版社を列挙してみる。左の数字は「叢書」の巻数を示す。

 1 『血縁』 木蘇穀訳、大鐙閣、大正十二年
 3 『肉塊』 秋庭俊彦訳、三徳社、大正十二年
 5 『アベ・ムウレの罪』 松本泰訳、天佑社、大正十年
 7 『酒場』 水上斎訳、天佑社、大正十年 / 『居酒屋』 木村幹訳、新潮社、大正十二年
 9 『ナナ』 宇高伸一訳、新潮社、大正十一年
 11 『貴女の楽園』 三上於菟吉訳、天佑社、大正十一年
 12 『生の悦び』 中島孤島訳、早稲田大学出版部、大正三年 / 『歓楽』 三上於菟吉訳、元泉社、大正十二年
 13 『ジェルミナール』 堺利彦訳、アルス、大正十二年
 14 『制作』 井上勇訳、聚英閣、大正十一年
 17 『死の解放』 坂井律訳、精華堂書店、大正十二年 / 『獣人』 三上於菟吉訳、改造社、大正十二年
 18 『金』 飯田旗軒訳、大鐙閣、大正十年

これらの前版が刊行されているものもあるが、それらは入手しておらず、挙げなかった。目を通してわかるように、これらはとりわけ大正十年から十二年にかけて集中して、「ルーゴン=マッカール叢書」が十一編翻訳刊行されていることになる。おそらく関東大震災が起きなければ、この出版の勢いから考えて、全巻が出版されたと見て間違いないだろう。それほどまでにこの時代において、ゾラへの関心は高まっていたのだ。それがフランス文学というよりも、社会主義陣営からの熱い眼差しによっていたのであるが。その一端が前述の『血縁』の「訳者序」における、「この訳書出版に種々御尽力下さつた高畠素之氏」への謝辞や、堺利彦による『ジェルミナール』の翻訳にもうかがわれる。

だが残念なことに、ゾラを出版していた大鐙閣、聚英閣、天佑社は関東大震災によって大きな被害をこうむり、廃業せざるをえなくなり、ゾラへの熱気と翻訳の流れが切断されてしまったのである。そのブランクもあって、春秋社の『ゾラ全集』も改造社の「ゾラ叢書」も中絶という結果に終わってしまったのではないだろうか。

そのことはひとまずおくにしても、ここに挙げた翻訳はすべて原本を入手したものに限って取り上げたのだが、木蘇が言及している『僧ムーレの破戒』は調べても見当たらないし、渡辺俊夫訳『陥落』(日本書院、大正十一年)は「叢書」第十九巻の『壊滅』かもしれない。その他にも関口鎮雄訳『芽の出る頃』(金星社、大正十二年)は『ジェルミナール』の別訳だと思われる。

壊滅 ジェルミナール

したがって大正時代におけるゾラの翻訳は「叢書」だけでなく、他の作品も含めれば、列挙した倍ほどの出版点数に及ぶのではないだろうか。それは日本に大挙してゾラの英訳が流入してきた事実を物語り、広範な分野からの熱い視線がゾラに注がれ、一気に集中して翻訳が進められたことを物語っていよう。

またそれらは、関東大震災後に譲受出版のようなかたちで異本として再刊され、確認できただけでも、成光館からは『酒場』『死の解放』『芽の出る頃』、第百書房からは、『制作』などが出されている。これらの関東大震災後のゾラを含めた翻訳書の出版状況については、中野書店の『古本倶楽部』連載の硨島亙の「震災の余滴」「震災の余滴余稿」に多くを教えられた。これらは数々の知らなかった出版史が詰めこまれている、とても興味深い連載なので、一本にまとめられることを、硨島には期待したいと思う。

なお当時のヨーロッパ文学の英訳本の流入事情については、山本昌一の『ヨーロッパの翻訳本と日本自然主義文学』(双文社出版)が詳しい。

ヨーロッパの翻訳本と日本自然主義文学

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