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ブルーコミックス論31 タカ 『ブルーカラー・ブルース』(宙出版、二〇一〇年)

ブルーカラー・ブルース



前回、貸本漫画の読者として想定された「非学生ハイティーン」という言葉が、一九七〇年以後、成立しなくなったことを既述した。それと同様に工場労働者を意味する「ブルーカラー」も死語となり、ほとんど使われなくなってしまった。それは「ブルーカラー」の対立語の頭脳労働者をさす「ホワイトカラー」も同じであろう。

このふたつの用語は一九五七年にアメリカの社会学者ライト・ミルズの『ホワイト・カラー』(杉政孝訳、東京創元社)によって、高度成長期に入りつつあった日本へと もたらされたものだった。ミルズの研究は、新たな中産階級の中枢を形成するようになったアメリカ社会における「ホワイト・カラー」の歴史と現在を描いた社会学の優れた一冊であった。しかし同書も含まれた東京創元社の「現代社会科学叢書」は、すでに消費社会の只中に置かれていたアメリカの実態と状況を背景としていたために、まだその段階に至っていなかった日本において、リアルな感触を持って読まれることはなかったように推測される。その代わりに用語だけが一人歩きし、いつの間にか消えていくプロセスをたどったと考えられる。

そればかりでなく、「ホワイトカラー」と「ブルーカラー」の二分法は、日本が工業社会から消費社会へとシフトしていくことで、もはや今世紀に入って成立しなくなり、使用されることもなくなったと思いこんでいた。現在の労働者の二分法とは、正社員と非正社員に移行してしまったという印象が強かった。

ところがそこにタカの『ブルーカラー・ブルース』が出現したのである。題材もさることながら、色が重なりあう山田玲児の『インディゴ・ブルース』という作品もあったが、このタイトルは「ブルー」の頭韻を踏み、まさにBlue Collar Blues なのだ。
インディゴ・ブルース

同じテーマの作品として、ハウスメーカーの現場の人間模様を題材とするロドリゲス井之介の『係長ブルース』、あるいは工場労働者の溶接工の仕事を描いた野村宗弘の『とろける鉄工所』は読んでいた。だがそれらにもまして『ブルーカラー・ブルース』はよりシリアスで、若い現場監督のリアルな日常報告から退職、再就職に至る事情を生々しく伝えていて、大手コミック誌の連載にはふさわしくなかった。ちなみにその掲載誌を読んだことはないが、『Nextcomicファースト』に連載されたものだという。
係長ブルース とろける鉄工所 [f:id:OdaMitsuo:20150109134218j:image:h110]

『ブルーカラー・ブルース』は紛れもなく自らの体験を等身大に描いた私コミックといえるであろうし、作者のタカも主人公の「松本貴仁」と重なり合ってしまうし、そのように読んだとしてもかまわないだろう。

松本は大学の電気工学科を出て、建設業界をめざしていたわけではなかったが、最初に内定が出た電気工事会社に就職した。職種は「電気工事施工管理」で、具体的にいえば、建設における電気工事の現場代理人=現場監督を意味する。彼は入社するとすぐに一人で現場に出され、想像していた「会社員」とはまったく異なる生活が始まった。ヘルメットに作業着、軍手に安全靴、仕事はパソコンで工事図面を描くこと、客の要望を聞くこと、建築、空調・設備という工事現場の他業種との打ち合わせ、職人への指示など多岐にわたる。

しかし他業種の代理人は海千山千の兵(つわもの)で、多くの職人たちも十代から現場で仕事をしていることから、その知識と経験は大学を出たばかりの新人と比べものにならず、彼らと打ち合わせをしたり、指示を出したりすることは最初から無理な注文なのである。そのために松本は寮と現場の往復の繰り返し、休みもとれない立ちづめの長時間労働に加え、怒られるばかりでストレスのために身体の調子が悪くなっていく。これらの事情について、タカは漫画で示すばかりでなく、職人や喧嘩や寮や身体を壊す人に関する一ページのコラムをそれぞれ挿入している。

そしてこれも「やめていく人たち」というコラムがあるように、松本も停電となる失策を犯し、職人から暴力をふるわれたことで、無意識のうちに現場から遠ざかり、気づくと近くのゲームセンターを歩いていた。午後九時のゲームセンターにはまだ家族連れ、アベックなどの客も多くいて、松本は「たとえようもない疎外感」を覚えた。それは「青い作業着姿の『オレ』と『オレ以外』が別の世界にいるような」思いをもたらした。この一節は「Blue Period」となっている。
この後始末は後輩の辞職とさらなる失敗も重なり、ついに辞めることになる。「俺は工事現場から何も考えずにただ逃げてきたわけじゃない。『ホワイトカラー』になってあいつら全員を見返してやる !! 」つもりで。

ここまでが『ブルーカラー・ブルース』の半分を占め、タイトル通りの内容といえよう。しかし松本の「ホワイトカラーになって」という述懐に突き当たって、最初に挙げたこの言葉も死語になっているという私の見解を恥じるしかない。またそれらを私は『とろける鉄工所』に描かれた「IT関連ホワイトカラー」なる人物、また欄外の編集担当者の言葉の中にも見出している。それは次のようなものだ。「初めて野村さんにお会いした時、『ホワイトカラーの世界って想像できなくて苦手です』って言われました。」

つまり「ブルーカラー」=「青い作業着」の世界から見れば、現在でも確固として「ホワイトカラー」は存在しているのだ。ただその反対に、「ホワイトカラー」の世界にあって、「ブルーカラー」はそのような呼称として存在しているのだろうか。またここに示されたネガティブな「ブルーカラー」に対して、優越的クリエイティブな「ホワイトカラー」という対照性は正しいのだろうか。

それはこの『ブルーカラー・ブルース』の後半の再就職をめぐるテーマであり、松本も述べているように、ずっと「家庭」「学校」「会社」という「社会」に属してきた世代がそれらを手放した時、何が起きるのか、またどこに帰属したら幸せであるのかという問題へともつながっているのではないだろうか。

私は『民家を改修する』(論創社)という建築をめぐる一冊も上梓しているので、建築現場をめぐる私見もあるのだが、長くなってしまうし、それはここでは差し控え、このような一文を書いている自分の立場を述べることによって、それに代えたいと思う。単刀直入にいえば、私はただひたすら読み書きの職人として、十年以上にわたって文章を綴ってきた。それゆえに「ホワイトカラー」の研究者でもなく、アカデミズムにも どのような学会にも属していない。だから本当に「ブルーカラー」の立場に属する職人として、読み書きの行為をなしてきた。これからもそのような立場を堅持したいと思う。
民家を改修する


次回へ続く。

◆過去の「ブルーコミックス論」の記事
「ブルーコミックス論」30 立原あゆみ『青の群れ』(白泉社、一九九六年)
「ブルーコミックス論」29 高田裕三『碧奇魂 ブルーシード』(新装版講談社、二〇一〇年)
「ブルーコミックス論」28 秋里和国『青のメソポタミア』(白泉社、一九八八年)
「ブルーコミックス論」27 やまむらはじめ『蒼のサンクトゥス』(集英社、二〇〇四年)
「ブルーコミックス論」26 原作・高山 路爛、漫画・やまだ哲太『青ひげは行く』(集英社、一九九九年)
「ブルーコミックス論」25 柳沢きみお『青き炎』(小学館、一九八九年)
「ブルーコミックス論」24 島本和彦『アオイホノオ』(小学館、二〇〇八年)
「ブルーコミックス論」23 石川サブロウ『蒼き炎』(集英社、一九九〇年)
「ブルーコミックス論」22 志村貴子『青い花』(太田出版、二〇〇六年)
「ブルーコミックス論」21 羽生生純『青(オールー)』(エンターブレイン、二〇〇二年)
「ブルーコミックス論」20 入江亜季『群青学舎』(エンターブレイン、二〇〇四年)
「ブルーコミックス論」19 さそうあきら『さよなら群青』(新潮社、二〇〇九年)
「ブルーコミックス論」18 篠原千絵『蒼の封印』(小学館、一九九二年)
「ブルーコミックス論」17 木内一雅作・八坂考訓画『青龍(ブルードラゴン)』(講談社、一九九六年)
「ブルーコミックス論」16 松本充代『青のマーブル』(青林堂、一九八八年)
「ブルーコミックス論」15 やまじえびね×姫野カオルコ『青痣』(扶桑社、二〇〇九年)
「ブルーコミックス論」14 やまじえびね『インディゴ・ブルー』(祥伝社、二〇〇二年)
「ブルーコミックス論」13 よしもとよしとも『青い車』(イースト・プレス、一九九六年)
「ブルーコミックス論」12 松本大洋『青い春』(小学館、一九九三年、九九年)
「ブルーコミックス論」11 鳩山郁子『青い菊』(青林工藝社、一九九八年)
「ブルーコミックス論」10 魚喃キリコ『blue』(マガジンハウス、一九九七年)
「ブルーコミックス論」9 山本直樹『BLUE』(弓立社、一九九二年)
「ブルーコミックス論」8 山岸涼子『青青の時代』(潮出版社、一九九九年)
「ブルーコミックス論」7 白山宣之、山本おさむ『麦青』(双葉社、一九八六年))
「ブルーコミックス論」6 狩撫麻礼作、谷口ジロー画『青の戦士』(双葉社、一九八二年)
「ブルーコミックス論」5 安西水丸『青の時代』(青林堂、一九八〇年)
「ブルーコミックス論」4 佐藤まさあき『蒼き狼の咆哮』(青林堂、一九七三年)
「ブルーコミックス論」3 川本コオ『ブルーセックス』(青林堂、一九七三年)
「ブルーコミックス論」2 序 2
「ブルーコミックス論」1 序 1