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古本夜話195 ゾラの翻訳の先駆者飯田旗軒

大正時代におけるゾラの翻訳者として、まず挙げなければならないのは飯田旗軒であろう。しかも彼は「ルーゴン=マッカール叢書」の『金』だけでなく、「三都市叢書」の『巴里』、「四福音書」の『労働』も翻訳していて、ゾラの三つのシリーズの訳者ということになる。

そして『金』は〇三年に藤原書店の野村正人、『パリ』は〇九年に白水社竹中のぞみの新訳がようやく刊行されたが、それまでは『労働』も含めて翻訳は八十年近く出ておらず、日本語で読もうとすれば、飯田訳にたよる他はなかったのである。これらはいずれも大正時代に大鎧閣から、木蘇穀訳『血縁』と同様の菊半截判千ページ前後の大冊で刊行されている。その中でも『巴里』の最初の翻訳は明治四十一年に共同出版が出版したのだが、発売禁止処分を受け、大正十年に改版上梓となった経緯が潜んでいる。

金 パリ

伊藤整『日本文壇史』12に、『巴里』の発禁事件に関する章がある。そこには『巴里』に掲載された、当時の内閣総理大臣西園寺公望への飯田の献辞と、西園寺の返信が引用されている。飯田はパリで西園寺と交際があった。ところが『巴里』は内務大臣の原敬によって発禁となってしまったのだ。この発禁騒ぎの背景には、山縣有朋たちによる自由主義者西園寺への圧力があり、原は発禁処分の動きに抗しきれなかったとされている。
日本文壇史12

浜松の時代舎で入手した箱付き美本の大鎧閣版『巴里』にも、西園寺の直筆の返信が収録され、飯田の見解が示されている。それは西園寺が同書のような社会性を帯びた「心理と正義と光明とを終局の結論とする」小説に賛辞を与えたために、山縣派から攻撃を受け、西園寺の擁護にもかかわらず、発禁になったというものである。小説の翻訳出版が政争に巻き込まれる時代もあったのだ。だがここでは訳者の飯田旗軒を紹介することが目的なので、これ以上『巴里』には言及しない。

旗軒は飯田旗軒の名前で、大正六年に南北社から『ざつくばらん』という随筆集を著し、明治半ばからの豊富な海外体験を含め、多くのことを語っている。彼は慶応四年両国に生まれ、東京大学予備門に進んだ。しかし脳充血に侵されて中退し、十七年に東京高等商業学校の前身である、日本最初の高等商業学校の開校に合わせて入学した。そこにベルギー人教師がいて、商業学士だったことから、奮発してベルギーのアントワープの高等商業学校へ日本人として初めて留学し、二十二年に優等商業学士を授けられ、日本人で最初の商業学士になった。留学中にロンドン、ベルリンを始めとするヨーロッパ各地を訪れ、パリでも数ヵ月を過ごし、二十三年に四年ぶりで帰朝している。その後の北米、南米、満州、南洋と洋行を重ね、当時の日本人としては突出した海外体験者だったと思われる。

帰国後、彼は高等商業学校で二年ほど教授を務めていたが、かつて硯友社のメンバーだったこともあり、時々筆を執るようになり、ゾラやピエール・ロティの翻訳に手を染めるに至ったという。彼が硯友社のメンバーだったとは意外であった。明治十九年の初期『我楽多文庫』の同人で、ヨーロッパからも寄稿し、尾崎紅葉との親交も続き、『金色夜叉』の登場人物のモデルにもなっているらしい。それに紅葉を始めとする硯友社の人々がゾラに親しんでいたのは、飯田の影響があってのことかもしれない。
金色夜叉

さて肝心な飯田の翻訳のことだが、『巴里』の「例言」で、次のように述べている。

 識者は元来専門家に非ず、只数度巴里を視ているといふだけにて、世界の文豪たるゾラの大著述の翻訳に筆を染むるが如きは柄に無き沙汰か知らねど、氏の著述を読んで至大なる慰藉を得、殊に此篇に在つては、訳者の理想とするところ悉く筆に顕はされて、其身作中に在るが如く、心轟き肉躍るの感を禁ずる能はざるものあり、即はち禿筆を駆つて訳をなすに至れるなり。

そして実際に『ざつくばらん』の中で、『金』の冒頭を例に挙げ、フランス語原文、飯田訳、英国のヴィゼテリー訳、アメリカのワレン訳の四つを比較対照し、翻訳の難しさ、直訳と意訳の問題に言及している。したがって飯田はフランス語原文だけでなく、絶えず英訳も参照してゾラの翻訳を進めていたことがわかり、その先駆的な翻訳の内実と誠実さが伝わってくる。ゾラの翻訳史を考えてみると、堺利彦のような社会主義者、及びゾラと同時代のパリを見て、近代経済にも通じていた商業学士の飯田によって、先人が切られたと見なすべきだろう。『金』の翻訳にしても、その主たる舞台は証券取引所であり、飯田がアントワープの高等商業学校で研究してきたのはまさにそれだったからだ。忘れ去られてはいるが、これらの意味において、ゾラの翻訳の先達として、飯田は検証され、また同時に顕彰されるべきだと思われる。

また飯田はピエール・ロティの『お菊さん』の翻訳も構想し、ロティからも翻訳権を与えられ、彼の序文も得ていたが、この翻訳は実現しなかったようだ。飯田はロティの二ページに及ぶフランス語原文とその訳文を、『ざつくばらん』に掲載している。おそらくロティの序文はこにしか収録されていないだろうし、そこでロティが、『お菊さん』よりも『秋の日本』が自分の日本に対する真意だと述べているのは興味深い。

お菊さん (野上豊一郎訳) 秋の日本 (村上菊一郎訳)
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