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古本夜話202 宇野浩二『文芸夜話』と金星堂「随筆感想叢書」

本連載176などで数回にわたってふれてきた新潮社の「感想小品叢書」とよく似たシリーズが、新潮社をライバルとして文芸出版を始めていた金星堂からもほぼ同時期に刊行されているので、それも挙げてみよう。これは前回の文藝春秋社の命名も関係しているからだ。

以前に古書目録で、宇野浩二の『文芸夜話』を見つけ、かなり安い古書価だったので、何気なしに申しこんだことがあった。その理由は目次の落丁ゆえだったが、運よく送られてきた。大正十一年に金星堂から出された一冊で、本当に前半の百九十ページほどの部分の目次が欠けていて、本文を確認してみると、それは「文芸閑話休題」や「随筆雑篇」にあたっていた。目次もないので、中身を確かめるために、まず前者に目を通してみた。すると宇野特有の語り口によって、最近の大阪行から喚起された様々な思い出が述べられ、読みふけってしまった。それほど長くない最初の文章の中に、明治後半から大正にかけての大阪の町やその変遷が語られ、宇野の大阪を舞台とする作品の補注のように読むことができる。例えば、それは次のような一文だ。

 或町は、稍々大きくなつたが私が、心の中で密かに慕つてゐた女を、その女が私の住んでゐた隣の家から、ずつと離れた方の或色町に、今考へて見ると誰かの多分妾にでもなつたのだらう、煙草屋になつて引越して行つた。そこへ必ず一週間に一度くらゐづゞ、少年らしい感傷的な心持を抱いて歩いていつた。その時の町筋の一つであつた、(後略)

宇野が中学時代を送ったのは大阪花柳界の宗右衛門町の近くで、その土地柄とそこで暮らす少年の心象がこの一文に表出し、彼の文学の原風景を形成したように思われる。

また宇野は十年前の友達との大阪行も語っている。それは大学の同級生の斎藤青羽との大阪行で、スポンサーつき同人雑誌の刊行のためだった。宇野はそのタイトルを示していないが、それは『しれえね』で、そこに掲載された三上於菟吉の小説のために創刊号が発禁処分を受け、二号刊行の画策が必要となり、大阪へ向かった。しかし二人は素人下宿で二ヵ月以上過ごしたにもかかわらず、その二号は出されずに終わってしまった。
『しれえね』に関しては、紅野敏郎の『文芸誌譚』(雄松堂)、及び「出てきなさい! しれえね…『しれえね』と私」に詳しい。
文芸誌譚 [f:id:OdaMitsuo:20120517181449j:image:h110] 『しれえね』


二人のその間の大阪生活も興味深いが、それよりも同行の詩人の斎藤青羽に関心が向いてしまう。宇野は青羽の詩を三つ以上見なかったと書いているが、その一つの二行詩を覚えてしまったこともあって、それを引いている。それは「悲しき日の夕べには入り日を眺め、古りし日の古りし歌をうたひにき」というもので、その詩を知ることによって、宇野は青羽と友達になったのである。

青羽は、人見東明、加藤介春、福田夕咲、三富朽葉、今井白楊たちが明治四十二年に結成した自由詩社の一人だった。自由詩社は機関紙『自然と印象』により、青羽の詩のような、現実の甘美な哀愁やメランコリックな気分を表現する詩も多かったが、三富朽葉のような象徴詩人を生み出したことで、「詩の革命派」ともされている。しかし青羽は『日本近代文学大事典』にも立項されておらず、またその他の詩についても未見である。ただ宇野によれば、その後外国語学校のフランス語科にあらためて入学し、そこで生まれ変わったように勤勉な学生となり、秀才として卒業し、フランスに留学したようだ。別名を犀東日露士としていた、その後の青羽の行方はどうなったのだろうか。

宇野浩二のこの『文芸夜話』は中表紙も含んだ目次部分の欠如もあってか、その記載もなかったので、単行本だと思いこんでいた。ところがある時、紅野敏郎の『大正期の文芸叢書』を見ていて、これが金星堂の「随筆感想叢書」の一冊であることに気づいた。宇野の他にも佐藤春夫、芥川龍之介、谷崎潤一郎、菊池寛、田山花袋などの著作が収められ、それらは三六判のフランス装、ポプリン表紙で統一されているようだ。紅野は記している。
大正期の文芸叢書

 この金星堂の「随筆感想叢書」は、新潮社の「感想小品叢書」と対になっているもので、大正文学の特質の一つとなっている私小説、心境小説のありようともからみあわせて考えていくべき要素を持っている。(中略)
 「随筆感想」である故に、著者自身のナマミの姿、本音を聞くことが出来、それが当時の文壇の状況を反映、従って大正文学研究必須の書、ということになる。

福岡益雄の金星堂は、横光利一や川端康成たちによる『文芸時代』の版元で、それは大正十三年に創刊され、新感覚派の文芸誌と見なされた。したがって『文芸時代』の創刊に先駆け、この「随筆感想叢書」とその巻末広告にある「金星堂名作叢書」は刊行されていたことになる。これらの著者は先に挙げた六人の他にも共通していて、金星堂が近代文学史において果たした出版活動の重要性を知らしめている。

これらの「叢書」の編集の詳細は判明していないけれど、博文館の編集者だった田山花袋、生田蝶介、大木惇夫、前田孤泉との関係から、本格的な文芸書出版が始まったとされるので、それらの人脈がきっかけとなったと思われる。神田今川小路の金星堂にかけられた看板は、田山の筆になるものだった。さらに付け加えておけば、「随筆感想叢書」の菊池寛の一冊は『文芸春秋』と題され、これがそのまま雑誌のタイトルへと応用されたともいわれている。

なお金星堂については拙著「知られざる金星堂」(『古本探究3』所収)を参照されたい。これは門野虎三の『金星堂のころ』(ワーク図書)を参考にし、主として営業の視点から金星堂を論じたものである。門野の著作は最近になって金沢文圃閣から『金星堂/語ろう会のころ』として復刊されてもいる。
古本探究3


この一文を書いてから、「東京人形倶楽部あかさたな漫筆」28が「人魚のうた―三上於菟吉と『しれいね』、サイレント社など」で、『しれえね』や同人たち、青羽の後についても詳しく言及していることを知った。こちらもぜひ参照されたい。

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