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古本夜話205 金子洋文『投げ棄てられた指輪』と新潮社「現代脚本叢書」

叢文閣の秋田雨雀『国境の夜』と一緒に買い求めた同時代の戯曲集があり、それは金子洋文の『投げ棄てられた指輪』で、前者と同様に背や表紙がかなり痛んでいたために、とても安い古書価で購入した記憶が残っている。『国境の夜』が「現代劇叢書」の一編だったことに対して、後者は新潮社の「現代脚本叢書」の一冊で、表題作の他に四編の戯曲を収録し、大正十二年十一月に刊行されている。

金子洋文は明治二十七年秋田県土崎港町に生まれ、苦学してから代用教員を務め、大正五年に武者小路実篤の書生となる。そして同十年に小牧近江、今野賢三たちと東京版に先駆けて、土崎版『種蒔く人』を発刊し、プロレタリア文学運動の提唱者となり、武者小路とも訣別し、小説や戯曲を発表した。雨雀も有島武郎とともに『種蒔く人』の寄稿者だったので、『秋田雨雀日記』にも何ヵ所か金子の名前が出てくる。それらはともかく、金子の戯曲としては冒頭に収録の「狐」のほうが、日本版『人形の家』とされ、秀作と見なされているが、ここでは表題作「投げ棄てられた指輪」を紹介してみよう。
『種蒔く人』  人形の家

この戯曲は三幕構成で、時代は現代、つまり大正であり、場所は秋田のある中学校教師の家庭で、家の下には公園の汚い堀が流れている。公園の公会堂ではロシア飢饉救済の音楽会が開かれ、オーケストラのかすかな音が聞こえてくる。

教師の妻の牧子が、息子の弘二の部屋にいて、オーケストラに聞きほれている清子にお茶を持って入ってくる。清子は医者の娘で、しかるべき良縁も拒み、弘二と相思相愛の仲ではあるけれど、母の牧子は清子について、生活や家柄が上の嫁をもらいたくないので、その結婚に反対し、勝手に妾腹で不幸な娘を下からもらおうとし、すでに息子との結婚を決めてしまっていた。弘二は母がもらうかたちだけの結婚だし、本当の妻はあなただと固く約束する。

だが母の牧子は夫の賢次に対してと同様に、息子の弘二にも君臨しているので、その娘仙子との結婚を強制的にさせてしまう。だが弘二と仙子は形式的な夫婦のままで、仙子はそのために離縁を申し出、一方で清子は自殺を告げ、弘二は二人の女の間で板挟みになりながらも、次第に仙子のほうに引かれていく。しかし結局のところ、清子は死を選ばず、東京に出ることを決め、二人に別れを告げにくる。「あなたは僕を憎んでゐるでせう」という弘二に、清子は次のように答える。

 「それほどでありません、かうなるのがあたりまへです。私は何よりもこれまでの自分達の過去を憎んでゐます。遊戯に充ちた論理や芸術を弄んできた自分達の生活が呪はしく思つてゐます。(中略)
 私達はこれまで狭苦しい自分たちの生活しか見てゐなかつたのです。世界のことや、もつともつと深い人生の姿にまるで無関心でゐたのです、……苦い経験でしたが、私は漸く救われたと思つてゐます。(中略)
 これまでのものは何もかも棄ててしまひたいのです。一切のもの、学問も、芸術も、故郷も、生活も、皆棄ててしまひたいのです。そして、裸になつて新らしい世界へ飛込んで行きたいのです。先生のところで少し勉強したら、フランスからロシヤへ行きたいと思つてゐます。」

そして二人が取り交わした指輪を下の堀の汚い泥の中にたたきこむことになり、それがタイトルの由来だとわかる。ここにも「狐」と異なる、もう一人のノラがいるといえよう。
「現代脚本叢書」は、紅野敏郎『大正期の文芸叢書』に立項されている。紅野はこの金子の戯曲集が関東大震災二ヵ月後の刊行であることを指摘し、「現代脚本叢書」が中止にもならず続けて出されたことは、当時の「戯曲熱、演劇熱のあらわれ」だと述べている。

大正期の文芸叢書

確かに『投げ棄てられた指輪』の巻末広告にはこの「叢書」の他に、『泰西戯曲選集』、『ストリンドベルク戯曲全集』の『ダマスクスへ』、「現下三十九作家一幕物選集」である劇作家協会編『現代戯曲大観』、やはり戯曲集の久米正雄『阿武隈心中』、菊池寛『藤十郎の恋』などもオンパレード的に掲載され、「戯曲熱、演劇熱のあらわれ」をそのまま伝えている。それらを背景にして、新潮社は大正十三年に『演劇新潮』を創刊するに至るのである。
藤十郎の恋

このような戯曲と演劇に対する出版の高まりは、劇団や劇場の時代を迎えていたこととパラレルであろう。平凡社『演劇百科大事典』、及び戸板康二『演劇五十年』時事通信社)に収録された「演劇五十年略年表」を見てみると、明治末期の坪内逍遥の文芸協会、小山内薫自由劇場、中村吉蔵の新社会劇団に続き、大正に入ると、次のような劇団や試演会が創立されていく。
斜線の左は代表者名である。

大正元年 川村花菱/土曜劇場
       村田実/とりで試演会
  二年  永瀬義郎/美術劇場
      市川猿之助/吾声会
      島村抱月/芸術座
      松居松翁/公衆劇団
  三年 池田大伍/無名会
      桝本清/第二次新時代劇協会
      吉田幸三郎/舞台協会
      松本幸四郎/新歌舞伎研究会
  四年 守田勘弥/文芸座
  六年 青山杉作/踏路社
  八年 畑中蓼坡/新劇協会
  九年 市川猿之助/春秋座
  十年 花柳章太郎/新劇座
 十一年 中村福助/羽衣会
      尾上栄三郎/踏影会
      市川壽美蔵/小壽々女座
 十三年 土方与志築地小劇場

そしてこれらの動きとパラレルに、多くの劇場が設立、開場され、戯曲や演劇の出版物の隆盛を見たことになる。続けてこのような演劇の時代を背景にして、円本時代に至り、『近代劇全集』第一書房)、『世界戯曲全集』(近代社)、『日本戯曲全集』春陽堂)などが刊行されることになったのである。

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