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古本夜話206 有島武郎の個人雑誌『泉』の流通販売事情

前々回ふれた『秋田雨雀日記』の大正十二年七月十日のところに、叢文閣の足助素一が有島武郎を死に追いやることになった最後の事件を告白し、『泉』の終刊号でそれらを発表することになったとの記述がある。それは有島の告別式の翌日のことで、その後も『泉』の話や原稿のことが続いている。

有島、『泉』、叢文閣の関係は近代文学史においてよく知られているが、それでも念のために『日本近代文学大事典』の解題を引いておく。
日本近代文学大事典

 「泉」いずみ 文芸雑誌。大正一一・一〇〜一二・六。二巻九冊。有島武郎の個人雑誌で、編集発行人には有島の親友足助素一が当たり、彼の経営する書店叢文閣から発行された。有島の死により廃刊となったが、八月、足助より終刊号として「有島武郎記念号」が発行された。有島が個人雑誌を出すにいたった動機は、第一には、毎月雑誌や新聞の注文原稿を期日に迫られていやな思いをしながら書くのでは、自分にも読者にも不満をもたらす場合が多いこと、第二には、自分が文壇に足を踏入れたそもそもから自分の主張は一家一流ということであり、党派というものが極端に嫌いなので、その考えを徹底するためにも、自分一個の雑誌を持つことが当然と考えたことにあった。(後略)

秋田の『日記』、及びここでいわれている「終刊号」は見ていないが、『泉』の第一号は所持している。菊判五十ページの薄い雑誌で、表紙の上の部分に赤字で「有島武郎個人雑誌」とある。有島の最後の時期の作品はここに発表されているのだが、この第一号には戯曲「ドモ又の死」が掲載され、四十ページ近くを占めている。その他には「『泉』を創刊するにあたつて」と「小作人への告別」という短文で、前者の要約が「解題」にあたり、後者は北海道の狩太農場解放宣言と見なせるだろう。したがってこれらは有馬の様々な立場におけるマニフェストといってよく、その意味で『泉』の第一号は有馬の満を持しての刊行であったと考えられる。
ドモ又の死 DVD

それはおそらく足助にとっても同様だったと思われる。だがこの広告も入らない定価二十銭の「個人雑誌」は、取次や書店という流通販売市場において、どのような扱いを受けていたのだろうか。そのことを足助が巻末の「編輯余録」で記している。これはいかにも足助ならではの発言で、所謂当時のリトルマガジンの取次事情が、正味条件も含めて明らかにされている貴重な証言だと見なすことができる。少し長くなってしまうが、紹介しておくべきだろう。

 この雑誌の販売は、はじめ市内の各大取次店は交渉したのですが、其内地方行きを専門とする某々取次店では、正味七・四掛以上では相談にならぬといふのです。その理由としては去年までは八掛以上でも引受けてゐたが(中略)今年からは七・四掛以上では断じて承諾できないといふのであります。併し去年と今年を区別する理由は僕には分りません。他店は知らず七・三や七・四掛では僕にはとても仕事が出来ないのであります。僕は大正七年九月にはじめて出版業に従事したものですが、(中略)、組版印刷代、広告料、製本代等凡て(中略)、実に大正七年の秋に比し倍額以上騰貴のままであります。で或取次業者は、「(中略)余り安くては有馬さんの顔にかゝはるから、定価を二十五銭とすれば七・三掛にしても引合ふでせう」と忠告して呉れました。成程これは大取次業者には至極便利なことだと感心しましたが、読者には至極迷惑なことでありませう。又定価の多少位で潰れるほど安価な顔の持主でも有島はない筈です。僕にしても無法な定価をつけることは、安んぜざる所です。だから僕は彼らを無視して取引せぬことにした為、此雑誌が地方へ出ない事になつたのです。

これには若干の説明が必要だろう。清水文吉の『本は流れる』(日本エディタースクール出版部)などを参照して考えてみる。足助の証言は大正十一年から大取次による雑誌の仕入れ正味の切り下げが始まり、それまで八掛以上でも通っていたのが、七・三もしくは七・四掛になってしまった状況を告げている。このような正味の切り下げの最大の理由を挙げると、輸送が従来の大八車や荷馬車から自動車へと急速に変わり、流通コストが上昇したことだ。

さらに付け加えれば、大正九年からは東京堂、北隆館、東海堂、上田屋、至誠堂の五大取次時代で、東京堂、北隆館、東海堂は地方書店も抱えていたが、上田屋と至誠堂は東京とその近郊が取引先だった。それゆえに東京堂などは八掛と考えられる正味を受け入れず、『泉』を扱わなかった。しかし上田屋と至誠堂は地方送品の必要がなかったために、『泉』の高正味を認め、扱うことになったのだが、地方書店への流通は無理だった。これが足助のいう『泉』が「地方の市場に出ない訳」となるのである。

リトルマガジンの取次との取引、流通販売の困難はいつの時代も変わらないものだと思い知らされるエピソードであり、その宿命も共通している。それに有島の死が重なり、『泉』は半年ほどの短い生命を終えてしまったからだ。

なお『秋田雨雀日記』第二巻の昭和五年十月のところに、足助の帝大病院におけるガンによる死が記されている。足助の叢文閣もすでに終わっていたと考えるべきであろう。

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