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古本夜話212 クラルテ社『クラルテ』、吉田文治と更生閣、高橋貞樹『被差別部落一千年史』

二十年以上前に古本屋の店頭で見つけ、表紙に創刊号と記されていたので、購入しておいた薄い雑誌があり、そのタイトルは『クラルテ』だった。菊判の表紙に赤く『クラルテ』、その上にフランス語のCRARTÈ がレイアウトされ、ビルの谷間に蠢く人々を描いた絵が置かれ、大正十四年六月一日発行、クラルテ社とあった。そしてページを開くと、「巻頭言」に次のような言葉が示されていた。

 社会が悩む、故に我に憂色があるのだ、故に我に思考があるのだ、四囲が囁く、故に我に言葉があるのだ。これが吾人の総てである。そしてこれ以上の一切は皆空だ。現代の悩みを切離するものは悩みの源を知らねばならぬ。社会に光輝をもたらすものは、暗黒の秘鑰を探らねばならぬ。
「クラルテ」は暗に育まれた光である。

そして巻頭に小牧近江の「フランスに於るクラルテの人々(クラルテ創刊に際して)」の一文が置かれ、「こん度計らず京都で花々しくクラルテが生れるといふこと」への祝辞を送っている。

確かに奥付を見ると、発行所は編集兼発行人の住谷悦治と住所を同じくする京都市下鴨松ノ木町のクラルテ社、発売所は同寺町通の更生閣で、京都で創刊されたとわかる。その事実から考えると、『種蒔く人』が関東大震災後に『文藝戦線』へとシフトしていったこととパラレルに、フランスにおける一九二一年のバルビュスたちの新しい雑誌『クラルテ』の創刊に呼応し、京都の『種蒔く人』の読者たちが中心となって立ち上げたと見なしていいだろう。
『種蒔く人』 『文藝戦線』

しかしこの京都版『クラルテ』についてはほとんど言及が見当たらない。小牧の『ある現代史』にしても「略年譜」に、創刊号に前述の一文を執筆とあるだけで、安斎育郎、李修京編『クラルテ運動と「種蒔く人」』(御茶の水書房)、大和田茂の『社会運動と文芸雑誌「種蒔く人」時代のメディア戦略』(菁柳堂)、あるいは梅田俊英の『社会運動と出版文化』(御茶の水書房)といった広範な研究書にも取り上げられていない。『日本近代文学大事典』にも小林多喜二の同人誌『クラルテ』の立項はあっても、京都版はない。

社会運動と文芸雑誌「種蒔く人」時代のメディア戦略 日本近代文学大事典

このような事実からすれば、京都版『クラルテ』創刊号は貴重な資料かもしれないので、もう少し丁寧に紹介してみよう。『種蒔く人』のメンバー全員は挙げなかったが、『クラルテ』同人は知られていないであろうし、煩を厭わず列挙しておく。それらは次のようなメンバーである。

河野密、阪本勝、波多野鼎、伊藤靖、麻生久、高倉輝、住谷悦治、新明正道、松澤兼人、大宅壮一、林要、
石浜知行、小牧近江、高橋康文

このうちの編集兼発行人の住谷悦治は小牧の一文に続いて「唯物史観の一角に立ちて芸術を観る」を寄せ、それは「唯物史観が人間社会の歴史の説明に適用さるゝ以上、人間の精神文化の華である所の芸術にも当然に適用さるゝことは言を待たないと思ふ」と始まり、京都版『クラルテ』の位相を告げてもいよう。

住谷を『近代日本社会運動史人物大事典』日外アソシエーツ)で引いてみると、東京帝大新人会メンバーで、大正十二年同志社大学助手、昭和二年教授となるが、治安維持法違犯容疑で検挙され、退職とある。
近代日本社会運動史人物大事典

その他には新明正道と河野密が歴史的エッセイ、波多野鼎が断想、伊藤靖と阪本勝が一幕物の戯曲を掲載している。新明や河野や阪本はやはり東京帝大新人会のメンバーだったり、吉野作造の影響を強く受けていて、『クラルテ』は京都版ながらも東京人脈の色彩が濃い。これは同志社大学に赴任していた住谷が中心となって創刊が企画されたことに起因していると思われる。しかし住谷と同様に、前述の『大事典』を引いてみても、『クラルテ』に関する記述はまったくない。

「編集後記」にあたる「六号雑記」は河野が書いていて、それを読むと、「素人が寄つて雑誌を出す―大変な騒ぎだ。同人の交渉、原稿の催促、本屋との折衝、広告の心配」とあり、雑誌創刊の混乱状況が伝わり、住谷を河野と阪本がフォローし、刊行にこぎつけたようだ。

それから「広告の心配」「本屋との折衝」とあるが、裏表紙には発売所の更生閣の広告が掲載され、そこに新刊としてプレハノフ著、河野密訳『社会主義及無政府主義論』、近刊として波多野鼎著『社会思想史』とあるので、この関係から発売所として更生閣が選ばれたのではないだろうか。

しかしそこに高橋貞樹の『特殊部落史』を目にして、彼の『特殊部落一千年史』が『種蒔く人』とほぼ同時代に出されていたことに気づいた。これは沖浦和光の校注を添え、『被差別部落一千年史』岩波文庫、一九九一年)として復刊され、私見によれば、白土三平『カムイ伝』は、高橋が十九歳で書き上げた先駆的な著作から大きな影響を受けていると思われる。

被差別部落一千年史 カムイ伝

高橋貞樹の波乱に富んだ短い生涯と『特殊部落一千年史』とその改訂版『特殊部落史』がたどった軌跡は、沖浦の「解説」を参照してほしいが、どのようにして高橋と更生閣が結びつき、大正十三年における前者の出版に至ったのかは明らかにされていない。しかしそこには出版にまつわる特有なドラマが生じていたはずで、発禁となった初版はやはり城市郎『発禁本』(「別冊太陽」)に書影が掲載されている。
発禁本

この更生閣の経営者吉田文治は、昭和初期の社会民衆党や総同盟の京都支部の立役者であったことから、前述の『大事典』にも立項を見ているが、ここでは『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』における「京都の特価本屋 吉田更生閣」(前田菊雄)を参照すべきだろう。

それによれば、吉田は奈良県出身で、大正十一年同志社大学を卒業し、大阪時事新報社に勤め、新聞記者をしていたが、労働運動家の西屋末広と知り合い、新聞社も辞め、社会運動に身を投じ、同時に出版活動も始めた。このような時期に高橋の『特殊部落一千年史』や『クラルテ』同人たちの著作を刊行することになったのであろう。その後の大正十五年頃から京大北門前に古本屋を開店し、昭和4年に京都古本組合の役員となってから、百貨店で特価本を売ることを思いつき、それが好評だったので、古書と特価本を混ぜた古書展を次々と百貨店で開催し、東京の成光館などとも取引するようになり、京都における数物本や特価本の売り方に革命をもたらしたとされる。吉田については本連載でまたふれることになろう。

おそらく『種蒔く人』が全国的に流通販売され、その影響を受けた『クラルテ』のような後続雑誌が生まれていったのは、吉田に象徴される社会運動と出版活動のドッキングを背景にしていたにちがいない。

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