出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話219 籾山書店の『文明』と永井荷風

「胡蝶本」『刺青』

前回植竹書院を取り上げたので、今回は籾山書店についてふれてみよう。といって私は初版本や美本にも通じていないこともあって、籾山書店の所謂「胡蝶本」に関してではない。もちろんほるぷ出版の復刻で、森鷗外の『青年』や谷崎潤一郎の『刺青』は見ているにしても。

植竹書院の植竹喜四郎と異なり、籾山書店の籾山は、鈴木徹造の『出版人物事典』に立項されているので、まずはそれを引いてみる。
出版人物事典

 [籾山仁三郎もみやま・じんさぶろう]一八七八〜一九五八(明治一一〜昭和三三)籾山書店主。東京生れ。高浜虚子から俳書堂を譲り受けて経営。俳書を出版、一九〇五年(明治三八)籾山書店を創業、文芸書を出版。泉鏡花『三味線堀』、永井荷風『すみだ川』、正宗白鳥『微光』、谷崎潤一郎『刺青』など、いずれも橋口五葉装幀の和紙に胡蝶模様を配した四六判、角背本で「籾山の胡蝶本」といわれる、大家、新進の後世に残る多くの名作を出版した。また一〇年(明治四三)『三田文学』を発売。一六年(大正五)荷風と月刊『文明』を発行、一七年『俳諧雑誌』を創刊、明治大正の文壇・俳壇に貢献した。(後略)

宇野浩二が、植竹書院は早稲田系であることに対し、籾山書店は三田系だと記していた事情が、籾山の慶応出身との経歴、荷風との関係からわかる。それに関連してここで言及したいのは『文明』のことで、復刻版『文明』(「近代文芸資料復刻叢書」第二集(1)、昭和三十七年)を所持しているからだ。本連載で大正時代に多くの文学者が出版に参加していった事実を述べてきたが、荷風もまたこの『文明』において同様の試みに挑み、そしてあえなく挫折してしまったと思われるので、それをたどってみたい。

大正五年四月に籾山書店を発行所として創刊された『文明』の「発刊の辞」で、奥付に「文明主筆」とある荷風は次のように宣言している。

 この雑誌文明は只今の処私個人の経営するものである。私の紙入から出費する遊び事故申すまでもなく経費には限りがある。目下戦争にて紙代高迶につき三十二頁といふ事にした。三十二頁位の小冊子にして置けば、一部も売れなくても差支はない。即ち全然世評を顧慮する必要のない純然たる文学雑誌たる事が出来る。

そして署名原稿四本を掲載しているにもかかわらず、「文学美術の雑誌は売れない処に値打があるのだ。売つて儲けたくば文学雑誌なぞを出すより春本でも書いた方がいゝ」とまで述べている。また籾山も「『文明』のうまるゝまで」を寄せ、「予は『文明』の為めに尽して俯仰天地に愧づるところなし」と言明している。

しかし実際には「三十二頁位」は五十二頁となり、それに広告が十六ページ加わっているのだが、そのうちの九頁は籾山書店の出版物広告で、思うように他の広告がとれなかったことをうかがわせている。

小出版社を発行所とする月刊リトルマガジンで、主筆が経費を負担し、「文学美術の雑誌は売れない処に値打がある」とはっきり宣言して始まったにしても、そうした雑誌がどのような末路に向かったかはいうまでもないだろう。私の所持する『文明』は前半第十五号までで、後半の第十六号から大正七年九月の第三十号までは未見だが、岡野他家夫の復刻版「解説?」によれば、『文明』の経営は創刊当初の荷風の思惑が外れ、さらに籾山の援助を受けざるをえなくなり、そのことによって荷風と籾山の間に確執が起き、荷風は第二十二号で『文明』への執筆を止め、第二十五号からは奥付の主筆名も消えてしまい、以後は籾山の名前に代わっているという。

それは『文明』創刊の翌年の大正六年から書き始められた『断腸亭日乗』にも明らかで、磯田光一編『摘録断腸亭日乗』(岩波文庫)の同年十二月廿八日のところに、「雑誌『文明』はもともと営利のために発行するものにあらず。(中略)米刃堂追々この主意を閉却し売行の如何を顧慮するの傾きあり。予甚快しとなさず、今秋より筆を同誌上に断ちたり」とある。『文明』第七号には永井荷風梓行として、父の永井久一郎遺稿の『来青閣集』全四冊の広告が出ているが、それも籾山書店を売捌所としている。それも含めて、ここに荷風の出版の試みは挫折したと考えられる。
摘録断腸亭日乗

しかしそれらの『文明』をめぐる事情もさることながら、籾山書店もまた窮地に追いやられていたのではないだろうか。紅野敏郎の『大正期の文芸叢書』の「胡蝶本」リストを確認すると、明治四十四年から大正二年にかけて二十四冊が出されていて、籾山書店の全盛はこれらの「胡蝶本」の刊行と『三田文学』の発行所を兼ねていた頃だったと思われる。それと同時に「胡蝶本」のような文芸書出版が利益を上げたはずもないので、俳書堂から出された定番でロングセラーの歳時記や季寄せなどの俳書の売上によって、経営のバランスが保たれていたとの判断が妥当だろう。
大正期の文芸叢書

それは『文明』の籾山書店と俳書堂の出版広告を比較してもわかるし、籾山による『俳諧雑誌』の創刊もそのことを告げていよう。その俳書堂の本を一冊だけ持っていて、それは河東碧悟桐の『新傾向句の研究』だが、こちらは菊半截判で、俳句を詠んだり、愛好したりする幅広い読者層に向けてのテキスト的実用書の趣がある。ちなみにその奥付を見ると、発行所として籾山書店の両脇に俳書堂、米刃堂との記載があり、これは籾山書店が俳書と近代文学書の二本立てで営まれてきたことを物語っている。

籾山書店の廃業の時期は明らかになっていないが、『文明』の終刊号が出された大正七年頃からそうした段階に入っていたのではないだろうか。なおその後、籾山は一方で俳人でありながらも、時事新報社の取締役となり、その経営にも参加したが、荷風との交友も途絶えてしまったと伝えられている。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら