(愛蔵版) |
水色はもちろんだが、水に関する物語も「ブルーコミックス」に属すると見なし、いくつか書いてみよう。
漆原友紀の『蟲師』は連載中からのTVアニメ化に加え、大友克洋の脚本、監督で映画化されたこともあり、その特異な動物でも植物でもない生命の原生体としての蟲をめぐる民俗学的コミックは、多くの読者を得たようだ。その漆原が『蟲師』の完結後に連載したのが『水域』で、こちらは水がもたらす神話、竜神伝説、ダムによって消滅した山村という、やはりもはや失われてしまった民俗と風景を背景にして物語は展開されていく。
雨不足の夏であるゆえに給水制限が行なわれ、中学校のプールも水が入っておらず、使用禁止の状態にあり、水泳部に入っている千波は猛暑の中でのランニングで倒れてしまう。そして気を失った状態でのモノローグが挿入される。「……あつい……水―どこか/水……冷たい 水のあるところ―」。すると溶暗の場面から転じて、水のうねりとその粒子が押し寄せ、川の流れが聞こえ、千波は川辺の草叢の中にいた。立ち上がった彼女は豊かな水の光景を目にし、その中に飛びこみ、そこに魚たちが群れているのを目にし、水を飲んでおいしいと思う。しかし水の中からは見慣れない山村の風景が見える。まさにこの時、千波はしきりに名前を呼ばれ、ようやく気を取り戻す。
だが翌日も風呂の中に入っていると、「あの夢の続き」が始まり、再び千波はあの川のところにいた。村を歩いて家の中も見ても、そこには誰もいなかった。滝の音に誘われ、山の中に入っていくと、いきなり川の中から少年が顔を出し、彼女を驚かせた。少年は帰り道がわからないという彼女を自分の家へと連れていった。そこには少年の父がいたが、彼女の目にはお父さんというよりも「おじいさん」に見えた。「おじいさん」は彼女にどこかで会った気がするといい、彼女も「知っているよう」な気がした。日も暮れてしまったので、千波は引き止められるままに風呂に入り、三人で夕食をとり、蚊帳の中で眠りについた。それらは「なんとなく初めてじゃないような」思いを感じさせた。
再び目覚めた千波は面白い夢を見たと思い、そのことを一人で住んでいるおばあちゃんに話にいく。彼女は千波の夢の話を聞き、「ばあちゃんの昔の家じゃないかねぇ」といい、千波が二歳の頃、一度だけきたことがあると話したが、詳しいことは何も語らなかった。
千波は三度目の夢を見る。目覚めると、またあの古い家にいた。「雨の止まない/人の気配だけが残る/時間が止まったみたいな村……」。彼女はスミオという少年と二人で滝に出かける。その滝壺には龍神の祠があり、深くて危ない場所だった。スミオはそこにもぐり、龍の玉をとってくる。彼はそれを祠に入れ、「また……みんな帰ってきますように」と願い事をするのだ。
丁寧に紹介したこともあって、イントロダクションだけなのに少し長くなってしまった。すべてを説明できたわけではないが、これだけでタイムトンネルとしての水と夢、龍神をめぐる伝説、ダムへの言及はまだ見られないにしても、失われた山村といった主要な物語構造と舞台装置をうかがうことができるし、それらが『水域』のメタファーだともわかるだろう。
それらの中でも物語の中心に位置する龍神伝説について、若干の注釈を加えておく。龍宮伝説の龍宮が豊饒の源泉であることに対し、龍神は淵、池、沼、湖などの主とされ、荒らぶる神の性格を備えている。同じコミックである近藤ようこの『説経小栗判官』(ちくま文庫)を参照すれば、小栗判官が鞍馬に詣って横笛を吹くと、深泥ヶ池の大蛇が美女に変身し、彼と夜な夜な契り、それが世間の噂となり、小栗判官は常陸の国へと流される。近藤はその場面しか描いていないが、変身した美女は龍神の娘で、それを知った龍神は怒り、七日間の大嵐を起こしたとされる。それらの故事を引き継ぎ、村の川も様々な龍神伝説に包まれ、『水域』の登場人物たち、物語と歴史を根底で支え、千波が象徴する現在までに至っていることになる。
それにダムによって強制的に失われた山村のいくつもの出来事と事件が重なっている。それは千波の祖父の述懐に象徴的に表出している。
どうしても納得できんのじゃ……なんで大事なものを奪われにぁならんのか。どこにでもあるような村じゃけど、どこへ行っても同じ村なんてない。
……あの滝も川も橋もここにしかない。なんでそれを水の底に沈めてまで人様の役に立たにゃならんのか―
以前にも書いているが、『佐久間ダム建設記録』(ジェネオンエンタテインメント)というDVDが出ている。これは昭和二十八年から三十一年にかけてのダム工事を、山の生活の変容も含んでリアルに描き、それに続く高度成長期の始まりの原初の姿を生々しく伝えている。しかしそこに千波の祖父の述懐のような言葉は聞こえず、巨大なダム工事の音の中に埋もれてしまっている。だがおそらくダム工事だけでなく、急速に変貌していった高度成長期の日本社会においては、そのような声が充満していたのではないだろうか。
工事を司り、進行させる視線から捉えられた『佐久間ダム建設記録』と異なり、『増山たづ子 徳山村写真全記録』(影書房)はダムによって消えていく村の住民の目による記録で、それらは二度と戻ってこない生活を写しておこうとする強い意志によって成立したように思えてくるし、千波の祖父の述懐が重なってくる。「どこにでもあるような村じゃけど、どこへ行っても同じ村なんてない」のだ。漆原の謝辞に川原湯温泉の名前があるが、この写真集も『水域』の参考資料として使われたのではないだろうか。いや、使われたと考えたい。この写真集から『水域』が生まれ、このコミックからまたいくつかの物語が派生していく。そしてそれが現代の『説経節』(平凡社東洋文庫)を織りなしていくのではないかと想像してみたい。
かつてガストン・バシュラールは『水と夢』(小浜俊郎・桜木泰行訳、国文社)の中で、夢想が最もよく育まれるのは、水と水辺の花のかたわらにおいてであり、「もしわたしが水のイマージュの生活を探求したいとのぞむならば、その主要な役割をわたしの故郷の川と泉に返してやらなければならない」と述べていた。まさにそのような作品として、またさらなる物語ファンタジーを兼ね備え、『水域』も成立しているように思える。
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