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ブルーコミックス論46 豊田徹也『アンダーカレント』(講談社二〇〇五年)

アンダーカレント


『アンダーカレント』と題された作品がある。鮮やかな紫みの青とされる花色のA5判のカバーに、一人の女性が川に沈んだオフェーリアのように横たわっている姿が描かれ、上の白い部分にこれもまた花色抜きで、そのタイトルが記されている。作者は豊田徹也で、彼には他にB6判の短編連作集『珈琲時間』があり、そこには「リトル・ガール・ブルー」という作品が収録されている。これらのこと以外に豊田のことは何も知らない。
珈琲時間

それらのことはともかく、最初に『アンダーカレント』=undercurrent はその表紙のイメージから「地下水脈」を意味しているように思われた。実際に表紙をめくると、扉には講談社の『英和中辞典』の定義が引かれ、「1下層の水流、底流  2〘表面の思想や感情と矛盾する〙暗流」とあった。それならば、『アンダーカレント』とはどのような物語であるのか。

『アンダーカレント』月の湯という銭湯を舞台とし、その経営者であるかなえをヒロインとして始まっている。タイトルと銭湯名だけでも、これまで言及してきたように青を想起させる水と月を含み、さらに1章の冒頭には浴槽に湯を張っている場面が置かれ、続けて見開き二ページに、川に下半身をつけているかなえの姿が、水や岸辺の草とともに描かれている。

これらはエピグラフとして引用されているundercurrent の定義である「水流、底流」や「暗流」を暗示するシーンだと考えられる。このかなえと川のシーンはこれからも何度も再現され、『アンダーカレント』という物語のひとつの大きな謎の伏線を示すことになる。そうしたかなえ個人をめぐる謎の痕跡の提示に加え、彼女の夫もまた2ヵ月ほど前に謎の失踪をとげ、いまだもって行方はわからない。その間かなえは月の湯を閉じていたが、とりあえず開けることにしたことで客が入り、その湯船での会話などから、それらの事情が伝わってくる構成となっている。そして翌日、銭湯組合に依頼していた手伝いの男が訪ねてくる。その堀という男は「真面目そうだ」が、「なんだか流れ者っていうか職の渡り鳥みたいなところ」があった。それでも彼は月の湯に住み込みで働くことになった。このイントロダクションだけで、かなえ、失踪した夫、新たに出現した堀という三人の登場人物が抱えている謎が、すでに物語に散種されたのである。

そして様々な謎と並んで、『アンダーカレント』の物語を特徴づける対話が、かなえと堀の間で交わされる。彼女は夫の安否を気にし、テレビや新聞のニュースに気をつけていて、彼にニュースや新聞記事になる自殺と、報道されない自殺の差は何かと問う。すると彼は一日100人近くが亡くなっているから報道しきれないし、死ぬ理由が特殊だったり、悲惨だったりすることが考慮されているのではないかと答える。さらに死や自殺をめぐる対話が続いていくのだが、それは省略する。このような対話は、かなえと大学時代の同級生、堀と手伝いのおばちゃんとの間でも交わされる。

そうした対話はかなえと、夫の捜索を依頼した探偵山崎との間でさらにエスカレートしていく。その会話の要点だけを引用してみる。

 「さっきからずっとお話聞いてて思ったんだけど、なんかこう見えてこないんですよ。あなたのご主人悟さんのパーソナリティみたいなものがさ」
 「……ずい分はっきりと仰(おっしゃ)るんですね。山崎さんは悟さんに会ったこともないわけでしょう。わかりもしないのに決めつけて……」
 「ええ会ったこともありません。では4年間交際してさらに4年結婚生活なさってたあなたは彼のことがわかるんですか?」
 「それは……全てわかってるとはいいません。でも少なくともあなたよりはわかっているつもりです」
 「ふむ……それではひとつ訊きたいんですが、人をわかるってどういうことですか?」
 「それは……その……共に時間を過ごしたり……その人の考え方を知ったり……それは……その……」

これがかなえと山崎の対話である。しかも初対面の。そして別れ際に彼は彼女に言う。「あなたはどうですか? あなた自身のことは彼にわかってもらえていたのですか?」と。

それでいて山崎は狂言廻しの役も務め、何と二回目に会った時にはかなえをカラオケ店に誘い、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「裏切り者の旅」を歌い、彼女にも「デュカ」を歌わせ、伴奏もするのだ。探偵と依頼者がカラオケを歌う場面はその歌詞と相俟って、『アンダーカレント』の物語をパロディ化しているようでもあり、他ではお目にかかれないシーンのように映る。そういえば、近所の住人で元テキ屋のサブ爺も同じ狂言廻しの役を引き受けているといっていい。そしてこの二人はクロージングにおける別れの場面の立会人も務めることになる。

そのような山崎とサブ爺の捜索と語りによって、かなえ、失踪した夫、新たに出現した堀の秘めていた謎が次第に明らかになっていく。それはまた『アンダーカレント』のタイトルにこめられた物語の「水流、底流」や「暗流」が何であったのかを復元すること、とりわけかなえの繰り返しフラッシュバックされる川と水の記憶の真相を再現することでもあった。

このような物語構造ゆえに『アンダーカレント』はコミックに他ならないにしても、読後感はその印象がきわめて薄く、そのドラマツルギーとダイアローグは演劇のような臨場感を与える。それはそのように意識的に巧妙にコミックとして仕立てられているからではないだろうか。残念なことに表紙カバーに象徴される、紫みの青である花色の意味は解明されていないにしても。

またこれはいうまでもないかもしれないが、その読後感は映画を、しかもとても静かな映画を一本観たような思いを残してくれる。ミステリー仕立てでもあることから、その謎には言及しなかった。それに加えてシリアスにしてコミカルなといっていいこの『アンダーカレント』は、一冊にしてコミック、演劇、映画の三位一体の感覚を楽しむことができる作品なので、ぜひご一読あらんことを。


次回へ続く。

◆過去の「ブルーコミックス論」の記事
「ブルーコミックス論」45 漆原友紀『水域』(講談社、二〇一一年)
「ブルーコミックス論」44 たなか亜希夫『Glaucos/グロコス』(講談社、二〇〇四年)
「ブルーコミックス論」43 土田世紀『同じ月を見ている』(講談社、一九九八年)
「ブルーコミックス論」42 marginal×竹谷州史『月の光』(エンターブレイン、二〇〇五年)
「ブルーコミックス論」41 喜国雅彦『月光の囁き』(小学館、一九九五年)
「ブルーコミックス論」40 平本アキラ『俺と悪魔のブルーズ』(講談社、二〇〇五年)
「ブルーコミックス論」39 中村珍『羣青』(小学館、二〇一〇、一一、一二年)
「ブルーコミックス論」38 山田たけひこ『マイ・スウィーテスト・タブー ―蒼の時代』(小学館、二〇〇六年)
「ブルーコミックス論」37 山岸良子『甕のぞきの色』(潮出版社、二〇一〇年)
「ブルーコミックス論」36 金子節子『青の群像』(秋田書店、一九九九年)
「ブルーコミックス論」35 原作李學仁・漫画王欣太『蒼天航路』(講談社、一九九五年)
「ブルーコミックス論」34 原作江戸川啓視、漫画石渡洋司『青侠ブルーフッド』(集英社、二〇〇五年)
「ブルーコミックス論」33 原作江戸川啓視、作画クォン・カヤ『プルンギル―青の道―』(新潮社、二〇〇二年)
「ブルーコミックス論」32 高橋ツトム『ブルー・へヴン』(集英社、二〇〇二年)
「ブルーコミックス論」31 タカ 『ブルーカラー・ブルース』(宙出版、二〇一〇年)
「ブルーコミックス論」30 立原あゆみ『青の群れ』(白泉社、一九九六年)
「ブルーコミックス論」29 高田裕三『碧奇魂 ブルーシード』(新装版講談社、二〇一〇年)
「ブルーコミックス論」28 秋里和国『青のメソポタミア』(白泉社、一九八八年)
「ブルーコミックス論」27 やまむらはじめ『蒼のサンクトゥス』(集英社、二〇〇四年)
「ブルーコミックス論」26 原作・高山 路爛、漫画・やまだ哲太『青ひげは行く』(集英社、一九九九年)
「ブルーコミックス論」25 柳沢きみお『青き炎』(小学館、一九八九年)
「ブルーコミックス論」24 島本和彦『アオイホノオ』(小学館、二〇〇八年)
「ブルーコミックス論」23 石川サブロウ『蒼き炎』(集英社、一九九〇年)
「ブルーコミックス論」22 志村貴子『青い花』(太田出版、二〇〇六年)
「ブルーコミックス論」21 羽生生純『青(オールー)』(エンターブレイン、二〇〇二年)
「ブルーコミックス論」20 入江亜季『群青学舎』(エンターブレイン、二〇〇四年)
「ブルーコミックス論」19 さそうあきら『さよなら群青』(新潮社、二〇〇九年)
「ブルーコミックス論」18 篠原千絵『蒼の封印』(小学館、一九九二年)
「ブルーコミックス論」17 木内一雅作・八坂考訓画『青龍(ブルードラゴン)』(講談社、一九九六年)
「ブルーコミックス論」16 松本充代『青のマーブル』(青林堂、一九八八年)
「ブルーコミックス論」15 やまじえびね×姫野カオルコ『青痣』(扶桑社、二〇〇九年)
「ブルーコミックス論」14 やまじえびね『インディゴ・ブルー』(祥伝社、二〇〇二年)
「ブルーコミックス論」13 よしもとよしとも『青い車』(イースト・プレス、一九九六年)
「ブルーコミックス論」12 松本大洋『青い春』(小学館、一九九三年、九九年)
「ブルーコミックス論」11 鳩山郁子『青い菊』(青林工藝社、一九九八年)
「ブルーコミックス論」10 魚喃キリコ『blue』(マガジンハウス、一九九七年)
「ブルーコミックス論」9 山本直樹『BLUE』(弓立社、一九九二年)
「ブルーコミックス論」8 山岸涼子『青青の時代』(潮出版社、一九九九年)
「ブルーコミックス論」7 白山宣之、山本おさむ『麦青』(双葉社、一九八六年))
「ブルーコミックス論」6 狩撫麻礼作、谷口ジロー画『青の戦士』(双葉社、一九八二年)
「ブルーコミックス論」5 安西水丸『青の時代』(青林堂、一九八〇年)
「ブルーコミックス論」4 佐藤まさあき『蒼き狼の咆哮』(青林堂、一九七三年)
「ブルーコミックス論」3 川本コオ『ブルーセックス』(青林堂、一九七三年)
「ブルーコミックス論」2 序 2
「ブルーコミックス論」1 序 1