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古本夜話223 大町桂月編著『文章宝鑑』と『書翰文大観』

前回その後の内外出版協会の出版物をリストアップし、その1に大町桂月編著『作例軌範文章宝鑑』(以下『文章宝鑑』と表記)を挙げておいた。『独歩名作選集』の巻末二ページ広告は「大町桂月先生は遂に逝かれた!!」とあり、次のような文章が続いていた。
[f:id:OdaMitsuo:20120713145225j:image:h200]『作例軌範文章宝鑑』

 文章は人格なりと喝破して、一身を文章に捧げたる我が大町桂月先生は、明治中頃から大正の今日まで、消長常なき文壇の一天に卓立して、特異創造の一大巨線を画し来つたのである。その著青幾百に上り、その文幾千万草を算する程豊富であるが、而も一句一章悉く生彩煥発して、金玉の響きがある。人一代の力が、如何に無限に、有意義に伸張し得らるべきかを示す一大象徴の感に堪へない。
 先生筆を執つては、行くとして可ならざるはなく、美文に、韻文に、史伝に、修養に、評論に、随筆に、紀行に、書簡に皆一世に傑出して居る。漢詩をよくし、和歌をよくし、俳句をよくし、口は訥であるけれども、その講演に独特の妙趣があつた。筆は器用ではないけれども、その筆蹟また他の企及を許さゞる縹渺の神韻があつた。

『独歩名作選集』の初版は大正十四年十一月発行で、『作例軌範文章宝鑑』も同年の出版である。桂月の死は同年六月で、青森県の蔦温泉において没している。これらの事実からすると、同書は桂月の遺作的な意味合いも帯びる。しかし大町桂月編著と謳われていても、桂月の晩年の生活と健康状態から考えて、「総頁一千二百余頁」に及ぶ大冊を自らの手で上梓することは不可能であり、別人による代作と考えてしかるべきだろう。

それならば、その別人とは誰か。おそらく『文章宝鑑』のコピーを書き、それを追悼文に代えた人物ではないだろうか。そのことを示す意味もあって、全文を引用しておいたのである。桂月に関してこの文章に付け加えると、彼は「行くとして可ならざる」アンソロジストでもあったように思われる。この『文章宝鑑』自体も、多くの近代文学者たちの文章を始めとするアンソロジーとなっている。私は以前に桂月の『山水大観』(鍾美堂書店、大正六年)を手元に置き、少しずつ読んでいたことがあったが、これも江戸初期から明治半ばにかけての四百以上に及ぶ人々の地理、案内、紀行のアンソロジーに他ならない。

前置きが長くなってしまったが、実はこの『文章宝鑑』と同じくして、桂月の『作法文範書翰文大観』(以下『書翰文大観』と表記)も一九八〇年に柏書房から復刻されている。前者に関しては小田切秀雄が「文章の饗宴」なる一文を寄せ、明治中期から大正時代にかけて、『文章宝鑑』のような文書を楽しみ、文例を役立たせることもできる編著が出されるようになり、『文章宝鑑』はその代表的な一冊だと述べている。しかしこれはどのような理由によるのか不明なのだが、小田切は大正十四年四月初版と記しているだけで、その出版社名を挙げていないし、復刻にもあってしかるべきその元版奥付も省略され、内外出版協会という事実は伏せられていることになる。

それに対して後者の『書翰文大観』は元版奥付も含まれ、大正五年発行、発行者は和出安太郎、発行所は神田区小川町の帝国実業学会だとわかる。巻頭には桂月の自筆の「自序」が置かれ、それから「書翰文十則」となり、ありとあらゆる分野、及び近世から近代にかけて名家の書瀚文アンソロジーが編まれ、本文八百余ページに加え、付録として二百ページを超える「書翰文辞典」も含まれている。それに編集内容とページ数だけでなく、判型も四六判で装丁も『文章宝鑑』と同様の印象を与える。つまり両書は出版社名は異なっているにしても、同じ代作者と編集者によっているのではないかと推測できる。だが『書翰文大観』に「書翰の宝庫」という一文を寄せている瀬沼茂樹も小田切と同じく、桂月編著と見なし、代作問題や出版者のことにはまったくふれていない。

しかし『書翰文大観』の奥付印を見ると、そこには「帝国実業学会」の押印がある。それは著作権が帝国実業学会に移っていること、もしくは同会の所持を意味している。これは桂月が著作権を帝国実業学会に最初から譲渡したとは考えられないので、『書翰文大観』に元版があり、その著作権を帝国実業学会が譲受したと見なすのが妥当だろう。それを原本として桂月の序文その他を加え、編集者が手を入れ、出版に至ったのが、この帝国実業学会の『書翰文大観』ではないだろうか。それゆえに出版社としての帝国実業学会は桂月に対して、印税ではなくしかるべき謝礼、それからおそらく桂月の関係者、もしくは弟子筋に当たるであろう編集者に対しても同様に、編集費を支払うことによって、同書は成立したと思われる。それは『文章宝鑑』も同じプロセスをたどったのではないだろうか。

前回にも既述したように、特価本業界の所謂「造り本」はこうした事情とプロセスを経ているので、低コストで大冊の豪華本仕立て、それに買切制も伴い、正味も低く設定され、読者にはまさにお買い得価格で入手が可能になるのである。

このような特価本業界と桂月の関係は、彼が博文館に勤めていたことから生じたとも推定される。博文館は月遅れ雑誌を扱う特価本業界の寅さんともいうべき坂東恭吾も出入りし、坂東は大正七年に東京図書株式会社を同業者たちと組織し、雑誌残本販売で莫大な利益を上げ、出版にも乗り出していったからである。帝国実業学会の発行者である和出安太郎もそれらの関係者ではないだろうか。そのように考えてみると、『書翰文大観』の口絵部分の桂月の「はかき」例として、和出宛年賀状が収録されていることは何となくおかしく、笑みをそそられる。そしてまた桂月や特価本業界に寄り添っていた代行者、代作者にしてアンソロジストは、どのような人物なのであろうか。

特価本業界と坂東のことについてはまた後述することになろう。

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