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古本夜話224 独歩社と『獄中之告白』

前回の『独歩名作選集』と大正三年の内外出版協会の倒産のことで思い出されたのは、それより八年前の明治四十年に破産した独歩社のことである。国木田独歩はその翌年に亡くなっているのだが、特価本と見なしていい『独歩名作選集』の出版は、この破産が尾を引いているとも考えられる。

明治三十九年に国木田独歩が矢野龍渓の近事画報社の跡を継ぎ、独歩社を興し、『近事画報』『新古文林』『婦人画報』を引受けて刊行し、たちまち資金繰り困難となり、破産に追いやられたことは、夫人の国木田治子が書いた小説『破産』(『明治女流文学集(二)』所収、筑摩書房)、『定本国木田独歩全集』別巻1所収、学習研究社)に生々しく書かれている。

この独歩社の破産に関しては、治子夫人の小説をベースにして、黒岩比佐子の『編集者国木田独歩の時代』(角川書店)で多面的に言及され、私も「出版者としての国木田独歩」(『古本探究2』所収)でふれている。

編集者国木田独歩の時代 古本探究2

しかしここではその一文を書いた時、読んでいなかった独歩社刊行の『獄中之告白』を、その後入手したこともあり、それについて書いてみたい。なぜならば、この一冊は独歩社が資金繰りのために出した「売れそうな本」で、「彼(あ)んなものを発行するなんて怪(けし)からん」という声も聞こえてきた、際物出版とも称すべきものであるからだ。

その前に、この野口事件について話しておこう。これは当時世を騒がせた事件で、伊藤整の『日本文壇史』8でも言及されている。明治三十五年に東京麹町で、男子小学生が臀部の肉をえぐられ、殺される事件が起きた。しかし警察は犯人を検挙できなかった。その三年後にやはり同区の薬店主が絞殺され、犯人として野口男三郎が逮捕され、小学生殺しも野口の犯行ではないかとの疑いが生じた。警察の調べに対し、野口は東京外国語学校に通っている時、漢詩人野口寧斎の家に出入りするようになり、彼の妹の婿養子に迎えられたが、その寧斎は癩患者だったので、人肉を食べさせると治るという迷信を信じ、小学生を殺して人肉スープにして飲ませたと自供した。ところがその後寧斎も死亡し、毒殺したのではないかと追及され、それを認め、死刑判決を受け、執行は同四十一年、奇しくも独歩の亡くなった年でもあった。

日本文壇史 8
明治三十九年八月頃、独歩は新聞社の社員から有名な男三郎が獄中で手記を書き、それが弁護士のところにあると聞き、その出版を思いついた。その場面を『破産』から引いてみる。

 其れから社員が弁護士に話した処が、承諾してくれた、そして弁護士の方の条件は本の体裁はクロースかなんぞにして、余り見悪(みにく)い物を製(こしら)へて呉ては困ると言ふ容易い条件で話しが纏まる。
 じゃ、愈よ出版(やら)うと言ふので、見積を立てると、紙代、印刷費、製本費、全国の新聞へ出す広告料、と五千部売れてとんとんと言ふ見積りが出来た。
 『単行本を一時に五千売る事は、困難(むづか)しい』と売捌き主任の嶋村は首を捻る。
 『五千は大丈夫、七千は必度(きつと)出ます』と岡村は受合った。

(『近事画報』第98号)
この新聞社の社員は窪田空穂である。岡村が独歩なのはいうまでもないだろう。そしてこの『獄中之告白』発行は九月の末で、またたく間に売れてしまい、一時は評判になったが、「際物だけに後はバツタリ売れなかつた」。黒岩によれば、十月一日発行の『近事画報』第九十八号裏表紙に『空前絶後の奇書出版』というキャッチコピーの全面広告が出され、「愈々(いよいよ)、初版忽(たちまち)売切(うりきれ)再版出来!!」と謳われていたという。
しかし花井卓蔵閲、澤田撫松編、男三郎自筆『獄中之告白』は実際に読んでみると、その内容は「空前絶後の奇書」とも思えず、むしろタイトルに付された「法廷叢書」にふさわしい内容で、それに見合った装丁と造本で、扇情的なところは一切ない。その「序」において、弁護士の花井はこの事件を「真相捉へ難く、渠れ自身亦、之と共に不可解の人」で、「空前絶後の疑獄」と見ていて、編者の澤田も「本書の発刊に就て」で、「男三郎の謀殺被告事件なるものは、実に空前の疑獄にして、而も趣味ある人生問題なり」と述べている。続いて三人を殺害したという「予審終結決定書」が挿入され、最後に男三郎の百二十ページ余に及ぶ「吾獄中之告白」は小学生殺人と寧斎毒殺に関して無実の主張が訴えられている。

これらだけで男三郎の犯罪の白黒の判断はできかねるが、事件・犯罪研究会編『明治・大正・昭和事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版)の「東京・麹町の少年臀肉切り取り事件」によれば、明治三十九年五月に東京地裁は小学生殺人と寧斎毒殺については証拠不十分との判断を下し、冤罪だったとの声もあると指摘している。
明治・大正・昭和事件・犯罪大事典

もちろん現在とはまったく異なるにしても、『獄中之告白』は内容から考えても、「一時に五千売る事は、困難(むづか)しい」と判断するしかなく、独歩社に利益をもたらすどころか、早急に重版をかけたために逆に赤字になってしまったのではないだろうか。明治三十九年九月二十五日発行、定価四十八銭、発行者国木田哲夫、発兌元独歩社とある奥付を見ていると、そのような思いにかられてしまう。切羽詰まって起死回生を狙い、「売れそうな本」を出したところで、売れたためしがないことは、多くの出版社の倒産や破産が証明しているからでもある。

それから『獄中之告白』を読んで連想したのは、翻訳であるにしても、同じく花井も登場する、上畠益三郎の『カイヨー夫人の獄』である。それは先行する同じような裁判関連書として『獄中之告白』が、出版にあたってヒントになったとも考えられる。もしそうであれば、独歩にとってこの出版も、もって瞑すべしといえるかもしれない。

『カイヨー夫人の獄』に関しては拙稿「倉田卓次と『カイヨー夫人の獄』」(『古本探究』所収)を参照されたい。

古本探究

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