前回と物語はまったく異なるにしても、夏であるから、それにふさわしい一編を続けてみよう。大石まさるのその『みずいろパーフェクト』を手にする以前に、同じ少年画報社から出された「水惑星年代記」シリーズを読んでいた。この五部作に、大石の水に関する並々ならぬ執着を感じ、ふとテーマは異質だが、吉田貴重によって映画化された、石坂洋次郎の『水で書かれた物語』(新潮社)という小説のタイトルを思い出したりした。
(『水で書かれた物語』 DVD版)
それと同様に、この『みずいろ』(以下この表記とする)を読んで、これも内容は何の関係もない、つげ義春の『夏の思いで』(中央公論社)を連想した。その理由はページ数こそ後者のほうが倍以上となっているが、両方ともA5判で、夏の物語に他ならなかったからだ。しかし夏の物語といっても、つげの『夏の思いで』は「海辺の叙景」に顕著に表われるように雨の気配を感じさせ、空も曇っているが、大石の『みずいろ』の物語はたとえ雨が降ったにしても、タイトル通りの色彩に包まれ、一冊のすべてが日に照らされた長い夏休みそのものだといっていい。『みずいろ』は二〇〇〇年と〇一年に第一、二巻が出され、それがパーフェクト版としてまとめられたものと注記がある。
(嶋中書店)
この版元の少年画報社はとても懐かしく、昭和三十年代に『少年画報』で連載されていた式内つなよし『赤胴鈴之助』、河島光宏『ビリーパック』、桑田次郎『まぼろし探偵』などはリアルタイムで読んでいた。そのこともあって、『ビリーパック』や『赤胴鈴之助』の復刻版だけでなく、数年前に出された『少年画報』の昭和三十五年正月号の付録も含めた「完全復刻版」も購入している。
それゆえに『みずいろ』に十全に張りめぐらされた少年少女、学校、夏休み、田舎、川、池、祭りといった物語ファクターは、大石の人物や風景描写と相俟って、かつての漫画体験の断片や少年時代の記憶をほのかに浮かび上がらせてくれる。本連載45の漆原友紀の『水域』のところでひいたガストン・バシュラールの言葉ではないが、海よりも川や池や泉のほうが、夢想を喚起させるのだ。もちろん現在ではそれらがノスタルジアに基づく造型であることにすぎないにしても。
カバー表紙に描かれたひとりの少女が『みずいろ』の物語の在り処を告げている。彼女は緑の山の景色を背景にして、麦わら帽子をかぶり、釣り竿を手にし、セーラー服姿でありながら、裸足でスカートを風になびかせ、佇んでいる。かたわらには脱いだ靴下と靴が置かれ、バケツからは釣った魚が跳ねているのが見える。そのふくよかな身体を示す、夏の日のスナップショットのようであり、また『みずいろ』の世界へと誘うような視線をはなっている。それは彼女が川に横たわるオフィーリア的存在ではなく、大地に根づくグレートマザーの役割も担っているかのようだ。
だがそうした印象とは相反し、彼女は山と川のある田舎の高校に東京から転校してきたばかりなのだ。そして次のようなナレーションが入る。
教室での彼女はつまらなさそうだった。 いつも眩しそうに外を見ていて、 大きな麦ワラ帽子ひとつ…… 手ブラで学校へ来た。 夏である。
ナレ―ターは高校三年生の加藤猛で、転校生は川上清美。彼女は陽炎が立ち、蝉の鳴き声と風鈴の音が聞こえる田園風景の中を歩いていく。その後を「尾行」するかのように追いかけていく猛。「陽光の下の彼女は学校とは別人のようにも見える」。彼女が放っているオーラは、夏休み前のあの雰囲気ともいえるものだった。まだ転校してきてから二週間ほどでしかないのに、田舎の子供たちとも顔見知りで、駄菓子屋のオバさんとも馴染みになり、犬さえもなついている。川辺で釣りをしている男にアイスを届け、一緒に食べたりもする彼女。彼の眼に映る彼女は、平凡な田舎の日常の中に出現した謎のニンフのようでもある。
最初猛は田舎の煩わしさに飽きていることから、都会の涼しげな感を与える清美に魅せられたと考えていた。しかし熱帯夜の中を涼みに出て、川で月明かりに照らされ、裸のまま泳いでいる彼女を見つけ、「月に人魚か…」と思う。
また猛はチェロを弾くのだが、以前ほど音が出なくなってきたように感じていた。そんな時に彼女の吹くケーナによる風の曲を聞かされる。それは拙いながらも彼女が吹くと、風が立って自然がコレスポンダンスし、雨までもが降り出し、夏の雨の匂いにも包まれてしまうのだ。彼女のケーナの奏でる音こそが、かつての自分のチェロの音だったことに気づき、猛はどこで間違えたのだろうかと考える。「不思議な事に彼女といると虫の音とか草の匂い、空気の動きに敏感になる」のだった。
これらはイントロダクションといえる第1話「月と人魚」、第2話「風の音」の要約であるのだが、この二作が好評であったために、大石まさるにとっても初めての連載となり、第20話「みずいろ」までが描かれ、『みずいろ』という長い夏休みコミックが生まれることになったようだ。
ストーリーが展開されていくにしたがって、清美の転校の事情や彼女の両親を含んだ人間関係が明らかにされていくことになるけれども、それらはサブストーリーでしかない。『みずいろ』の物語の求心は、あくまで田舎の夏休みを描くことにあり、清美こそが永遠の夏休みを象徴する「みずいろの乙女」なのだ。それは他の青であってはならず、川の「みずいろ」でなければならない。川の「みずいろ」とは「樹や空を映し、言葉や想いを溶かし、太古より巡り続けた記憶のいろ」だからだ。
この夏休みをめぐる『みずいろ』を読みながら、堀川正美の「経験」(『堀川正美詩集』思潮社)の「明日があるとおもえなければ/子供ら夜になっても遊びつづけろ!」という一節を思い出した。そしてこの後半の詩句が、金井美恵子のエッセイ集『夜になっても遊びつづけろ』(講談社文庫)のタイトルに転用され、そこでつげ義春の「海辺の叙景」などのマンガ論が収録されていたことも。
かつての少年少女の夏休みのイメージも変わってしまい、詩の時代も終わってしまったかもしれないが、マンガの時代はまだ確実に続いている。
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