出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話229 白揚社、三徳社「民衆科学叢書」、有楽社「平民科学」

ここで再び左翼系出版社に戻る。梅田俊英の『社会運動と出版文化』において、「白揚社は商業的左翼物出版社のひとつの典型」で、当時の左翼からもあまり信頼を得られていなかったと指摘されている。しかしこれは出版ジャーナリストの甘露寺八郎の見解を踏襲したもので、そこまで言い切ってしまうと気の毒ではないだろうか。すでに記しておいたが、白揚社の前身は大正六年に創業した三徳社で、多くの左翼出版物を刊行していて、これはそれなりに信頼を得たゆえで、それがベースにあり、白揚社と社名を変えても同様の出版を続けることが可能だったと思われる。

この三徳社の本が三冊あって、その一冊は山川均の『敵陣を俯瞰して』で、大正十二年に刊行されている。同書はタイトルに表われているように、「常に無産階級の一兵卒として、階級戦の一隅に闘つてゐるものの態度」(「はしがき」)をはっきり示す「論集」で、三徳社もある程度のリスクを覚悟しての出版だと考えてしかるべきだろう。

この巻末に「山川均著訳書目」十六冊が挙げられ、しかもそのうち六冊が三徳社からの刊行で、またそれに続く出版広告は石川三四郎の『放浪八年記』、堺利彦『米泥棒』『火事と半鐘』、山川菊栄『女性の反逆』なども続き、三徳社と『平民新聞』や売文社人脈との深いつながりを想起させる。
女性の反逆 (岩波書店

そこで山川菊栄向坂逸郎『山川均自伝』岩波書店)を読んでみたのだが、第三部にあたる大正六年以後の記述が座談会発言の採録という事情もあってか、出版社との関係についてまったくふれられていない。しかし詳細な「年譜」をたどってみると、昭和に入ってからも白揚社からの出版は菊栄との共著『無産者運動と婦人の問題』も含めて続いている。これらのことを考えれば、山川と三徳社、白揚社はかなり長く信頼関係が保たれていたと見なしてかまわないだろう。

山川均自伝

所持する三徳社の他の二冊はムウア原著、大杉栄訳『人間の正体』、同、山川均訳『文明人の野蛮性』で、これらはいずれも「民衆科学叢書」の第三、四編にあたり、大正十年に刊行されている。再度『敵陣を俯瞰して』を確認すると、第一編がクロポトキン原著、山川訳補『動物界の道徳』、第二編がベルシエ著、堺利彦訳『人間発生の跡』、第五編がマイヤー原著、安成貞雄訳『地球の生滅』、第六編は堺利彦『男女関係の発達』だとわかる。

付け加えておけば、第五編のマイヤーの安成訳『地球の生滅』は、私が「水野葉舟と『心理問題叢書』」(『古本探究3』所収)などでしばしば言及しているHuman Personality and Its Survival of Bodily Death の抄訳ではないだろうか。
古本探究3

出版に関する言及は少ないにもかかわらず、これらだけは『山川均自伝』に出てくるが、それは三徳社からではなく、有楽社の出版物としてで、明治四十年の『平民新聞』廃刊後のエピソードとしてである。

 その年の秋には、堺さんはそのころポンチ雑誌を出していた有楽社から、『平民科学』という六冊の叢書を出す取りきめに成功した。第一篇は堺さんの『人間発生の歴史』で、私は第二篇の『植物の精神』を書いたが、これは確かムーアという人の『マインド・オブ・プランツ』の反訳だった。第五篇(ママ)『動物界の道徳』はクロポトキンの『ミユーチュアル・エイド』の第一章の『動物の相互扶助』の反訳で、幸徳さんの担当だったが、後に私加わることになった。定価三十銭で、当時は発行部数もせいぜい千部どまりだったろうから、これから得られた印税はわずかに六十円、これが一年と四ヵ月の収入になる仕事の全てだった(後略)。

これには修正が必要で、著者や訳者であっても、往々にして出版の事実を間違えてしまう一例であろう。『全集叢書総覧新訂版』八木書店)を見ると、「平民科学」は明治四十年に六冊本として刊行されているので、山川のいう「六冊の叢書」はそのとおりである。だが「第二篇の『植物の精神』」は山川述、堺利彦編で、三徳社の広告から判断すれば、山川の訳であるにしても、それは「民衆科学叢書」の『植物の心』のことで、著者はムーアではなく、R・H・フランスとなっている。ただ両者を見ていないので、有楽社版と三徳社版との異同を検証できない。山川にしても両者を見て書いているわけでないことだけは確かであろう。

全集叢書総覧新訂版
これらの事実は書誌の難しさをあらためて教えてくれるが、意外だったのは北沢楽天主筆とする『東京パック』の版元の有楽社が、前々回記したスウェーデンボルグ鈴木大拙訳『天界と地獄』に加えて、このような「叢書」を刊行していたことである。山川の「ポンチ雑誌」という言い方が「叢書」とのギャップを示しているように思われる。

小川菊松『出版興亡五十年』の「消滅した著名書店」のところに、やはり有楽社が出てくる。有楽社は麹町有楽町にあり、「堂主中村彌二郎氏は後有楽と改名し、中年からの出版人であるが、才気煥発の新人であつた。雑誌は東京パックの他に数種を発行し、華かな大宣伝で当時の出版界を席巻したものであるが、物に凝り過ぎ、あまりに信念強く自説を固守するので、才子才に倒るの結果に陥つた」と述べられている。
出版興亡五十年

『山川均自伝』によれば、『平民新聞』廃刊後に山川も含めて収入を得る仕事がなくなり、何人もの失業者が生まれてしまったので、堺利彦がウィリアム・グリスの『ニュー・エンサイクロペディア・オブ・ソーシャル・リフォーム』を範とする『社会問題辞典』を出すことを考え、山川たちがその仕事にとりかかったが、結局のところ出版されずに終わってしまい、その後に企画され、有楽社に持ちこまれた仕事だったようだ。そして有楽社の行き詰まりにより、その著作権が三徳社へと引き継がれたのである。

幸いにして『東京パック』清水勲監修による「漫画雑誌博物館」シリーズとして復刻もされているので、「平民叢書」の宣伝や広告の有無を確認してみた。しかしそれはアンソロジー復刻もあってか見当たらず、「『東京パック(第一次)』史年表」(明治38年〜明治45年)にも言及はなかった。

それでも三徳社の「民衆科学叢書」が、有楽社の「平民科学」の焼き直しであることを初めて知らされたので、ここに一文を記してみた。

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