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古本夜話232 光風館、中興館、矢島一三『八洲漫筆』

前回泰平館と提携していた中興館にふれたこともあり、ここで中興館に関する一編を書いておきたい。

本連載63203でも中興館を取り上げてきたが、創業者の矢島一三も含めて断片的であり、『出版人物事典』における立項をベースにして、いくつかの事柄を添えたもので、立体的な言及に至っていなかった。

出版人物事典

ちなみに『出版人物事典』を引いてみる。

 [矢島一三やじま・いちぞう]一八八〇〜一九六四(明治一三〜昭和三九)中興館創業者。長野県生れ。一九〇三年(明治三六)上京、光風館に入社。在勤中の一一年(明治四四)、表神保町に中興館を創業。同郷の吉江喬松の『旅より旅へ』を処女出版、同じく同郷の窪田空穂の歌集、藤森成吉などの処女作をはじめ、島津久基、久松潜一、藤村作などの国文学関係書をつぎつぎに出版して地盤を築いた。四四年(昭和一九)戦時下に要請された出版企業整備を推進した責任者として、潔く自らの廃業を実行した。(後略)

矢島の中興館は大手出版社でなかったし、上記のような理由で廃業してしまったために、出版史において、もはやほとんど語られていないが、矢島は戦前戦後を通じて出版業界の重要なシーンに立ち会ってきたと推察された。しかしあえてそれらのことに踏みこまなかったのは、矢島の主著『八洲漫筆』を長年にわたって探していたにもかかわらず、読めないでいたからだ。ところが最近になって、中野書店の古書目録に掲載があり、ようやく入手することができた。その『八洲漫筆』には昭和三十三年に喜寿、金婚記念として配られた非売品とあったので、それが見つからない原因だったとあらためて納得した。それでも古書価は千五百円だった。

『八洲漫筆』は二百ページ弱の小著ながら、後半は矢島の履歴、中興館の社史と著者と出版物、出版業界における役職を簡略にたどっていて、とても興味深いでの、それらを追跡してみる。

矢島は二十三歳で上原才一郎が営む光風館に入る。小僧修業から始めて、九年間勤めることになったが、最後の三年間は自己出版を許されたので、中興館を始めた。光風館の上原も信州人で、自店から独立開業した十余人の者に「光」の辞を冠した館名を与えたと記されている。とすれば、この時代の晴光館、光世館、光融館などは光風館から分かれたものと見なしてかまわないかもしれない。おそらく中興館の「興」も「光」をもじっているのだろう。

その当時の光風館の出版物が手元にある。それは『中学國文教科書参考』前・後篇の二冊で、均一台から拾ったものだ。菊判上製各六百ページに及ぶ大冊だが、奥付には「非売品」と記載されている。やはり奥付記載、及び内容から判断すると、これは東京高等師範学校教授吉田彌平編『中学国文教科書』の教師用指導書、所謂「虎の巻」であろう。それゆえに光風館編輯所編とされ、教科書採用学校に対して、教師の人数分、もしくは採用数に応じ、添本、献本として送られたものだと考えられる。

その巻末広告には師範、中学、実業学校の各種国文、漢文教科書が並んでいるので、これらにもそれぞれ『教科書参考』が編まれ、学校や教師に提供されていたことになる。矢島が光風館に入り、三年を経て出版業を修得し、独立しようと申し出た頃、「教科書が盛んに売れ出し、その他の出版物も次ぎ次ぎと刊行されて一層忙しくなり、地方の師範・中学・女学校などに教科書の採用運動にも出掛けねばならず」、結局のところ九年間勤めたのはこのような事情によっている。

そして矢島は中興館を創業するわけだが、前出の立項に示されているように、松本で知遇を得ていた吉江や窪田の著書から始めている。だが矢島が非凡なところは二人やリトルマガジン『聖盃』(後に『仮面』)の発行を引き受けたことを通じて、早稲田人脈とその出版に関わっていくに際し、窪田には匿名で『運動界の裏面』と題する野球界の裏話本、西條八十には『花合せの遊び方』といった花札の実用書を出させていることで、いずれも菊半截判で、よく売れたという。さらに吉江と会津八一には英語のサブリーダー、また会津には英語書取帖も出させ、会津にとっては、これが処女出版だったようだ。おそらくこれらのことは『八洲漫筆』にしか述べられていないのではないだろうか。その他にも絵雑誌『新子供』の創刊と当時の幼年画雑誌と残本事情も興味深いが、それらは別の機会に譲る。

また矢島は「職歴」と題する三十五ページに及ぶ最も長い章で、出版業界における様々な役職について語っている。それらは出版社の共同事業会社だが、戦前の出版業界がいくつもの会社を設立し、自助努力によって流通や販売、返品処理の問題にも取り組んでいたことを教えてくれる。その「職歴」の中でも圧巻なのは、昭和十五年以後の出版新体制下の動向で、矢島はそれらの要職についている。

   * 国民教育図書株式会社取締役社長
   * 日本出版文化協会評議員
   * 日本出版会業務委員、企業整備部会長
   * 大日本出版報国団総務
   * 財団法人国民教育研究所監事
   * 高等諸学教科書株式会社監査役
   * 日本出版助成株式会社取締役社長

ちなみに付け加えておけば、「企業整備部副部会長」は講談社の野間清一であったことからも、矢島のポジションの重要性がわかるだろう。これらの団体や会社の目的や事業の詳細に言及できないが、すべて「日本の出版業界がどうすれば国家の要請する戦時体制に即応し得るか」に向かうもので、矢島は「今から思うと一種のナンセンスのようなもの」で、「過ぎ去りし時代の悲劇の一こまでもあり、昭和十五年から二十年頃までの業界の動きは真に慌ただしく、後世『日本出版業界史』を編集する人々の眼にどんな工合に映るか」と記してもいる。

そして出版業界も戦後を迎え、敗戦の帰結として、出版新体制の象徴であった国策一元取次の日本出版配給株式会社がGHQから閉鎖期間に指定され、矢島はその清算人にも就任している。彼はその清算について、銀行家の天下りの前清算人が官僚的処理によって莫大な清算費を費消したことに言及し、最初から出版業界人によって処理を進めれば、多額の清算費用も半額、もしくは三分の一ですみ、出版信用銀行設立の資金を確保できたし、後の出版業界にも大きく貢献したのではないかとも述べている。

このような矢島の報告は、出版企業整備の責任をとり、中興館も残さなかった潔さの反映でもあり、戦時下の出版業界を検証するにあたっての貴重な証言のように思われる。

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