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古本夜話233 同人社、大島秀雄、石浜知行『闘争の跡を訪ねて』

梅田俊英は『社会運動と出版文化』(御茶の水書房)において、改造社が『改造』を左翼的編集にすることで当った現象を背景に、大正九年頃からジャーナリズムの左翼化が生まれ、商業的左翼出版社も発生していったと述べ、それらの出版社として叢文閣、大鐙閣、弘文堂、白揚社と並んで、同人社も挙げ、次のように書いている。

 同人社は、大原社会問題研究所の出版部から独立した。同社名は、東大経済学部の高野岩三郎研究室に集まっていたグループ名、同人会よりとって大内兵衛が命名したものである。(中略)大原社会問題研究所・我等社・社会思想社は人的交流が密接で、二〇年代前半期の社会科学研究を代表した。したがって同人社の刊行物も同様である。しかし、三・一五事件によって大原社研に「存廃問題」が生まれた頃から同人社も下り坂になった。(中略)三・一五、四・一六事件後社会主義運動は大きく変質し、左翼知識人が中心となって文化運動が主体となる。このなかで思想的な左翼化がより進み、取り残されることになったのが原因といえよう。

補足すれば、「三・一五、四・一六事件」とは昭和三年三月十五日の日本共産党員とシンパの一斉検挙、同四年四月十六日の同様の大検挙による党組織の壊滅的打撃をさしている。
梅田が各年度の『出版年鑑』を追って描く構図は、次のようなものである。大正末期から昭和初期にかけて、左翼系出版社が簇生したが、昭和三、四年の一斉検挙を背景に、商業系左翼出版社は衰退し、社会運動専門出版社が台頭し、一定の高揚を示した。それは直接販売、前金販売、組織販売にたよるものだった。だがそれも昭和六年がピークで、満州事変の発生を見て下火に向かい、昭和九年には左翼出版物が没落し、マルキシズムが出版の華やかな舞台から退場する事態を迎えた。その仕上げの象徴が左翼系出版社共生閣の藤岡淳吉の転向で、彼は自ら出版した左翼関係書二百点を絶版とし、在庫一万冊を焼却するというパフォーマンスを示したのである。おそらく同人社もこのような流れの中で消えていくしかなかったと推測される。

その同人社の本が二冊あり、それらは石浜知行『闘争の跡を訪ねて』(大正十五年)、長谷川如是閑吉野作造序、井口孝親訳『ローザ・ルクセンブルグの手紙』(同十四年)で、両者の巻末には三十点から五十点近い出版物が掲載され、マルキシズムのみならず、マルサスの『人口の原理』やウエッブの『消費組合運動』の翻訳の他に、大原社会問題研究所編の各種年鑑、雑誌、パンフレットなども掲載され、商業的左翼出版社というよりも、社会運動専門出版社の色彩が強い。ただ出版社の場合、一冊でもそのような傾向のある出版物が売れてしまうと、そう呼ばれてしまうことも必然ともいえる。
『闘争の跡を訪ねて』  ローザ・ルクセンブルクの手紙 (『ローザ・ルクセンブルクの手紙』川口浩訳、岩波文庫

そうした出版物こそは石浜の『闘争の跡を訪ねて』だったようだ。『近代日本社会運動史人物大事典』(内外アソシエーツ)で石浜を引いてみると、明治二十八年兵庫県生れ、大正八年東京帝大法学部卒業後、満鉄勤務を経て、十一年文部省在外研究員としてヨーロッパに留学し、帰国して九州帝大教授となるとあり、次のように続いていた。
近代日本社会運動史人物大事典

 ヨーロッパ留学のさい集めた資料をもとに記念の書『闘争の跡を訪ねて』(同人社)を著わしたが、これは石浜の名前を当時の進歩的インテリ青年の間で一躍有名にしたものであった。「従来日本人の注意しなかった欧州社会運動の実際の方面を描かうとした」と明言されていた本書には、大学を追われて後ジャーナリズムで専ら活動する石浜の個性的性格からくるユニークさがあふれていた。即ち、その試みはきざっぽさを抜いた既成のアカデミシャンからは一歩はみ出た啓蒙的な特徴を有した読み物であった。ドイツ社会民主党の書庫の話、社会民主党やドイツ共産党の講演会、「カールとローザ」に関する闘争的な演説会、ブランキの墓、ジョーレスの撃たれた酒場の話、ゲーテと社化主義の話等々が興味深いエピソードと共に紹介されていた。さしずめジャーナルな方面でとりあげた社会主義エピソード史的性格をもつ啓蒙の書であったといえる。

『同事典』としては一冊に対して、異例の長い既述のように映ったこと、それに執筆者の木村四郎がリアルタイムで読んだ記憶を克明に伝えているように思われたので、省略を施さずに引用してしまった。私の読後感も同様で、このような楽しい「読み物」がまだ左翼出版社から出せることのできた大正時代を想像してしまう。私にとって興味深かった一編を挙げれば、それは「クロポトキンの手紙」である。

石浜はベルリンの古本屋でバクーニンの手紙を発見し、買い求めたところ、ルイゼと名乗る女性から電話が入り、それを譲ってくれと頼まれた。断わると写真に撮るので数日貸してくれという。そのお礼に自宅に呼ばれ、夫を紹介された。この夫婦はロシア人で、夫はペテルスブルグ大学の元教授で、クロポトキンの親友だった。そしてクロポトキンの「青年に訴ふ」の草稿と手紙を見せた。そこで石浜は、それは日本でも訳されていると答えると、彼は自分のことのように喜び、クロポトキンの手紙のほうは進呈すると言い出した。そこでしめたと思い、もらってしまったという「バクーニンを貸して、クロポトキンを貰った事件のいきさつ」である。それから手紙の内容が続くのだが、長くなってしまうので、残念ながらここで止めるしかない。

なお同人社の発行者は大島秀雄であるが、この人物は『同事典』に立項されていない。早大政経科を卒業後、郷里の岡山県に帰り、岡山市の中国民報社に入ったが、二年で退社し、大原社会問題研究所の出版部である同人社を引き受け、経営に携わるようになったと伝えられている。大島だけでなく、多くの左翼系出版社の経営者の全貌は明らかになっていないといっていいだろう。

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