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古本夜話237 冨山房「模範家庭文庫」と平田禿木訳『ロビンソン漂流記』

楠山正雄の「模範家庭文庫」というと、たちどころに山本夏彦の同名のエッセイ「模範家庭文庫」(『「戦前」という時代』所収、文春文庫)を思い出す。そこで山本は次のように書いていた。

「戦前」という時代

 模範家庭文庫は文庫とはいえ菊判(今のA5判よりやや大)、厚表紙、天金、箱入、各巻五百ページの大冊である。神田冨山房発行。発行人は坂本嘉治馬である。
 冨山房は今でこそ振わないが、明治二十九年創業の老舗で、明治時代は盛んだった版元である。それが大正五年楠山正雄の企画でこの文庫を出した。

そして山本は『アラビヤンナイト』(杉谷代水訳)、『グリムお伽噺』(中島孤島訳)、『イソップ物語』(楠山正雄訳)、『アンデルセンお伽噺』(長田幹彦訳)、『ロビンソン漂流記』(平田禿木訳)、『新訳西遊記』(中島孤島訳)を挙げ、それらの中でも『新訳西遊記』を愛読したことを語り、その一節を引用している。この他にも彼はとりわけ『ロビンソン漂流記』について言及していたはずで、大半が姉たちに与えられていたことによって「模範家庭文庫で育った」と言う山本の愛着の深さがしのばれる。

山本がこの「模範家庭文庫」なる一文を書いたのは昭和五十八年のことだが、もはや見つからず、「週刊新潮掲示板」に出しても何も反響もなかたので、古本屋に頼んでようやく『新訳西遊記』を一冊八千円で入手したという。それからグリム、イソップ、アンデルセンを貸してくれる人があり、物語の題の多くは忘れていたが、口絵と挿絵は「全部、おお全部おぼえていた」と述べている。そしてまだ見ることのできない『ロビンソン漂流記』や『ガリバー旅行記』についても言わなければならないと付け加えている。

この山本の一文を読む少し以前に、『ロビンソン漂流記』を古本屋で見かけ、その児童書らしからぬ箱入りの堅牢な造本と装丁、想像力を喚起させる豊富な挿絵に興味を覚え、購入したことがあった。今になって確認してみると、ずっしりとした重さがあり、奥付に大正六年発行、同八年三版、改正定価三円と記されていた。山本は大正五年に定価二円から二円二〇銭だったと書いているから、数年で値上げされたことになるのだが、それでも版を重ねていた事実を教えてくれる。円本時代の到来がその七、八年後であることを考えれば、この定価が当時の児童書としては、山本もいっているように「図ぬけて高い」。それはこの「模範家庭文庫」が上流階級の読者を対象にして企画刊行されたことに求められるだろう。

『ロビンソン漂流記』の巻末に「坪内芳賀両文学博士推奨」の「絵入り新訳」の「模範家庭文庫」の広告とコピーが付されている。

 冨山房の模範家庭文庫がお話の精美を尽し、装丁の華麗を極め、出版界に飛びはなれて優透なることは教育界識者間の定評にて、特に四季をりゝゝの賜物として此の位家庭を賑はし、お子達を悦ばせるものはないとは紳士夫人令嬢方の評判になつております。

つまりこの時代にどれだけ該当する読者がいたかわからないが、そうした「お子達」と「紳士夫人令嬢方」に向けて出版されたのであり、ランティエたる山本一家もそのような階層に位置していたことになる。

それから特筆すべきは、コピーにも見えているし、前述したように、三色版、石版、木版、写真版による口絵や挿絵で、『ロビンソン漂流記』でもそれらは百以上が収録され、その岡本帰一の絵は物語に独特のアウラを添えている。訳者の平田禿木は『冨山房五十年』(昭和十一年)において、「『漂流記』と『旅行記』に就いて」を寄せ、この二編が楠山正雄の好意と丹精によって光を見たこと、さらに故岡本帰一の出色の挿絵が訳文を引き立て、清新味と華麗の趣をもたらしてくれたことで、世の好評を博したと記している。

また平田による『ロビンソン漂流記』の翻訳は児童書の体裁はとっているにしても、先駆的なもので、彼自身も断わっているように、その「序」に述べられたデフォーと『ロビンソン漂流記』の紹介はそれまでと異なり、画期的なものだったのではないだろうか。そこで平田はデフォーの多面的な生涯をたどり、『ロビンソン漂流記』の著者が「後の自然主義とも呼応すべき英の小説界、否、全欧小説界の先駆者といつてもよい」と断言し、クルーソーが島を出るところまでが「芸術的作品」と見て、その続編的出版物にはふれず、「あの大団円の一場をきつかけに、満ち引いてこの物語の酒宴の幕を閉じることにしました。読者(よむひと)にこれを諒されんことを」と結んでいる。

平田は南雲堂から『平田禿木選集』全三巻が出され、その第三巻はほぼラムの『エリア随筆』の翻訳に当てられている。だがこれも含めた国民文庫刊行会の「世界名作大観」などのおける多くの訳業や、『ロビンソン漂流記』といった児童書の翻訳に関しても、さらに注目すべきと思われる。山本ではないが、岡本帰一の荒れる海の挿絵とともに、「私は千六百三十二年、ヨオクの市で生れたのですが、父はブレエメン生れの外国人でして、初めハルの港へ落ちついたのを……」という『ロビンソン漂流記』の冒頭の訳を目にした年少の読者たちは、おそらくその書き出しと挿絵に強く印象づけられ、それを忘れることがなかったのではないだろうか。

平田の「世界名作大観」の訳業については、拙著『古本探究』巻末の資料を参照されたい。また「模範家庭文庫」の一冊である『世界童話集』と吉行文学の関係について、以前に「吉行淳之介冨山房『世界童話集』(「古本屋散策」79、『日本古書通信』〇八・一〇)も書いている。

古本探究

なお一九八〇年代に創刊された福音館書店の「世界古典童話」はその企画といい、判型といい、挿絵といい、この「模範家庭文庫」をそれこそ範としていると考えて間違いないであろう。


福音館「世界古典童話」シリーズ

アラビアン・ナイト ガリヴァー旅行記 西遊記 ロビンソン・クルーソー
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