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古本夜話242 平凡社、下中緑、権藤成卿『自治民範』

本連載199で、渋谷定輔の『農民哀史』(勁草書房)にふれたが、これについては別の機会にゆずると書いておいた。ところが前々回『世界家庭文学大系』と『世界家庭文学全集』を確認するために、久しぶりに尾崎秀樹の手になる『平凡社六十年史』に目を通していたら、下中弥三郎が出版に携わる一方で、大正十四年に渋谷、石川三四郎、中西伊之助たちと農本主義的な農民自治会を設立し、編集兼発行人を渋谷とする機関紙『自治農民』を創刊し、またその関係で、渋谷が平凡社から詩集『野良に叫ぶ』(のち万生閣)を刊行していることを、あらためて思い出した。

農民哀史  
もちろんそれらは渋谷の『農民哀史』にも述べられているけれども、『平凡社六十年史』に『自治農民』と『野良に叫ぶ』の書影が掲載されていたからだ。また農民自治会については、『下中弥三郎事典』に渋谷による簡にして要を得た立項があるし、渋谷は後に平凡社の地方部員ともなっている。渋谷のことはともかく、下中の農民自治思想と農本主義への傾斜は、昭和二年に権藤成卿の『自治民範』の出版として結実する。そのことについて、『平凡社六十年史』は次のように書いている。

 この時期になると単行本の数も次第にふえてくるが、とくに権藤成卿「自治民範」の出版は記念すべきものだった。「自治民範」の出版は記念すべきものだった。「自治民範」は後に五・一五事件の思想的背景をなした著作であり、著者が説く農本自治の構想は、下中弥三郎が兼ねてから抱いていた農民自治の発想とある点で共通していた。資本主義的、官僚主義的方向を改め、農本主義を主体とする自治制度の採用を主張する権藤の思想に、共鳴するところのあった下中は、権藤によって組織された自治学会から刊行されていた前編と後編を一冊にまとめ、その普及を引き受けたのである。この企画を下中にすすめたのは緑夫人だったらしい。菊判黒布装、函入、五九〇ページ、定価は三円八十銭だった。

私の手元にある『自治民範』は昭和七年の二円八十銭の再版で、時期的にいって同五年の五・一五事件による権藤の投獄、釈放後に、あえて定価を安くした普及版として刊行されたように思われる。

権藤の『自治民範』の要点は後編の第二講「社稷」に求められるだろう。権藤によれば、「社稷」は記紀に見える「神祇」、「アメツチカミ」と訓せるが、これが「社稷」の意である。すなわち「アメツチは大地、天地は自然である。其自然に生々化々無限の力がある。我が国の建立は悉く社稷を基礎として建立されたもの」で、「社稷は国民衣食住の大源である。国民道徳の大源である。国民漸化の大源である」とされる。この「社稷」の視点から、明治以後の欧米を範とした官治主義、法治主義、観念主義が批判され、原始以来の自治の歴史がたどられ、日本古来の君民共治、社稷自治の思想が語られていく。これこそ近代資本主義に抗して天皇制と農村共同体をリンクさせるものであり、下中の農村自治や農本主義と重なり、下中の後の様々な軌跡に大きな影響を与えたと推測できる。

昭和十五年に刊行された『新撰大人名辞典』(復刻『日本人名大事典』)において、下中は同十二年に七十歳で没した権藤の項を自ら担当し、そのかなり長い、半ページにわたる立項により、権藤の死を深く追悼しているように映る。また他ならぬ渋谷定輔も編集の中心となったと考えられる『下中弥三郎事典』において、「自治民範」の項に三ページを割いて自ら担当し、『自治民範』は「膨大な平凡社出版図書のなかで主要図書のひとつ」にして、「下中思想の研究のうえからも、欠くべからざる文献のひとつ」と記している。

それからさらに考えるべきは、『平凡社六十年史』でもふれていた下中緑と権藤の関係である。『自治民範』の「跋」が「自治学会同人供識」として、巻末に大正十五年九月の日付で収録され、そこに次のような文言が見える。

 (前略)頃者平凡社下中緑君本書ヲ読ミ、本邦庶民ノ規度準縄此ニ在リトナシ、更ニ是レカ開版ヲ企図シ、先生ニ諮ル処アリ、先生為ニ前篇ト合輯校訂シ、之レヲ下中君ニ托セラル、是ニ於テ沿革ト例制トヲ対観比照シテ、民衆自治ノ型範ヲ瞭ニスルヲ得ルニ至レリ、及チ此ニ下中君ノ盛意ヲ多トシ、我会同人ノ喜ヲ攄ヘ、之ヲ巻尾ニ跋ス。

『自治民範』という著作の性格からいっても、また大正時代における企画編集者としての女性の位相から考えても、下中緑に対してこのような謝辞が述べられているのは異例だと考えていい。それは彼女が下中のダミーとして『自治民範』を刊行するに至ったのではなく、自らの企画で出版したことを如実に物語っている。しかも前々回の下中緑を発行者とする『世界家庭文学大系』が昭和二年一月に出され、『自治民範』が続いていることからすれば、この時期に彼女は企画編集に携わっていたのではないだろうか。

下中緑が平凡社の歴史にあって、果たした役割は明らかになっておらず、『平凡社六十年史』においても、明治四十二年の弥三郎との結婚、大正三年に平凡社を創業してからの別会社の万生閣の名義人となり、渋谷の『野良に叫ぶ』を出していることなどがふれられているだけである。また『下中弥三郎事典』においても、「みどりの日記」が立項されてはいるが、これは彼女の晩年の戦後の三年間の日記で、没後の昭和三十年五十日祭に親戚知友にだけ配られた非売品私家版に関してであり、彼女の出版との関係を語るものではない。

私は以前に「平凡社と円本時代」(『古本探究』所収)を書き、「円本の総本山」と称された夥しい円本企画にふれ、平凡社と下中弥三郎の特異な存在を抜きにして、これらの七百巻に達せんとする刊行は不可能であったろうと述べておいた。そしてあらためて『自治民範』と緑夫人をそこに置いてみると、それこそ平凡社そのものが出版の「社稷」のような存在であり、下中もまた緑夫人という「妹の力」によって支えられていたことで、まさに怒涛のような出版と倒産を繰り返しても、常に復活することが可能だったのではないだろうか。

古本探究

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