森岡倫理の『青、青、青』の英語タイトルblue blue blue、そう、句読点を除くと先に取り上げた岡崎京子の作品と同じということになる。
「Blue Blue Blue」( 『恋とはどういうものかしら?』所収)
そのイントロダクションを示す。
『そこは誰もが訪れることのできる場所ではない』
そんな書き出しで稀覯本に紹介される国がある。
その国は雲上にあり、羽根をもつ住人は二人きり。
その二人とは弓弦(ユヅル)と華矢で、どうやらそこは羽人(ハネビト)の国とされているようだ。
草の上で淡い水色の石を握り、羽根をつけたまま眠っている少年を、ひとりの少女が見つける。しかし彼女が目にしたその羽根は一瞬のうちに消えてしまっていた。彼女はイリスという名前で、その少年を兄のクラウディオと暮らす家に連れて帰る。少年には記憶もなく、名前もわからない。
そこに近所に住む紳士で、イリスの信奉者フライヤー(飛ぶ人)がひとりの少年を伴い、訪ねてくる。その少年は記憶をなくした少年に、「弓弦(ユヅル)…!!」と呼びかけ、羽根を出して飛びつく。フライヤーは語る。連れてきた少年は華矢で、彼が自分のところに降り立ったのは幸運だった。なぜならば、この二人は人間ではないし、我が家に『ランゲルハンス島訪問記』という一風変わった旅行記があるが、その中に雲の上に住む羽根を持った者たちに関する既述がなされ、その二人の名前は弓弦と華矢とされている。この本は二百年前に出されたもので、これが冒頭に出てくる「稀覯本」で、そこで紹介されている「国」がランゲルハンス島だとわかる。
いうまでもなく、ランゲルハンス島とは膵臓の中にある島状の細胞群のことをさし、それは同時に世界で最も小さな島のメタファーであるから、ここでも雲上の小さな国の表象となっているのだろう。そういえば、村上春樹と安西水丸の絵本に、『ランゲルハンス島の午後』という一冊があったことも思い出される。
それらの詳細を知りたければ、私の家まできてほしいというフライヤーの言葉に応じ、弓弦と 華矢、遅れてイリスは彼の家に向かうが、そこに陳列されていた夥しい鳥の標本を見て、弓弦だけは逃げ帰ってしまう。どうも弓弦の記憶喪失の問題も、水青石にこめられているようなのだ。そもそも雲上の国において、二人の記憶や感情や力と切り離せない水青石を下に落としてしまったことで、この物語は始まっているからだ。
だがその一方で、イリスとフライヤーの含みのある会話が交わされる。フライヤーはイリスと自分がともに異端だという。それに対し、イリスはフライヤーの「度を過ぎた収集癖」を挙げると、フライヤーは「あなた方のインセスト・タブー(近親相姦)」だと応じる。イリスは「禁忌を犯していない」と血相を変え、言い返す。しかしそのイリスの反応は何らかの真実を突きつけられたかのようで、それまでの兄妹の謎めいた描写や会話を暗示している。
イリスの場合、そうした会話が交わされるのはフライヤーばかりでなく、弓弦や兄とも同様なのだ。雲の上から降りてきた羽根のある弓弦に対してはフライヤーと異なり、親近感を覚え、彼を抱擁し、「―由になりたい…」と呟く。
そのシーンを見ていたクラウディオにイリスは告白する。「禁じられるから止まらないのか、そんなこと関係なくこの気持ちがあるのか」と。兄は「今だけ忘れて、血の繋がりとか禁忌とか。体と気持ちだけ残したら」と答え、次に二人の兄妹らしからぬ接吻と抱擁シーンが二コマ挿入されている。
そして翌日、イリスと弓弦は再びフライヤーの家に出かけた。フライヤーは塔の上に三人を案内し、弓弦をいきなり突き落とす。フライヤーによれば、ショック療法で、失敗したところで人ではないから殺しても罪にならないからだ。すると弓弦は羽根を出し、舞い上がり、それに華矢も続く。そこでイリスは二人に水青石を返すと、その色が濃くなり、弓弦の記憶が戻りつつあることがわかった。かくして二人はランゲルハンス島へと戻っていった。しかし地上での生活を体験してしまった彼らは、二人だけの空の生活が淋しいと思い、イリスたちのところにすぐに引き返したのだった。
しかし弓弦と華矢が戻ると、兄妹の家は火事で全焼してしまい、二人の遺体すらも見つからなかった。フライヤーは二人とも死んでしまったというが、名前を変えてどこかで暮しているかもしれないし、もしかしたら別々の道を歩んでいるかもしれないと、弓弦と華矢は思う。そして弓弦はイリスが「―由になりたい」といった呟きは、きっと「自由」のことで、彼女は今そうなったのかとも考えた。
これはまだ「第一羽」の「羽人と地に溢る感情と」だけのストーリーであり、地上に戻った弓弦と華矢の物語はこれから「第17羽」まで語られ、「extra feather」や「Epilogue 」の「Blue,blue,blue」を加えれば、20編にわたって展開されることになる。
地上に降りて暮らすことになった弓弦と華矢はどうなるのか。イリスたちはどこに消えたのか。ここではあのフライヤーに関することだけにふれておこう。「第9羽」は「ランゲルハンス島の断片」と題され、Jonathan Flyer , Fragments of Langerhans の書影も描かれ、フライヤーがこの著作で弓弦と華矢について語り、彼ら羽人を捜していることが述べられている。しかもロンドンでのフライヤーのガイドを務めるのは長井代助、すなわち夏目漱石の『それから』の主人公と同名なのだ。また一九三〇年代の東京で、弓弦が寺田寅彦と出会う場面も描かれ、羽人たちの地上での彷徨(さまよ)いが広範なものであったことを告げている。
そして前述したが、「エピローグ」がタイトルと同様であるように、ここで華矢は弓弦に「地上に降りたことを後悔していない?」と問う。弓弦は水青石を示し、華矢がコバルトブルーかというと、「僕には藍色に見える」し、風景も人の気持ちもこの色と同じように、見る人や時によって変っていく。だから水青石と僕の状況が後悔の色だけで染まることはない。地上には愛しさを含んだ地上の営みがあると語るのだった。そして「その上に拡がる空は/どこまでも/青、青、青」と見開き二ページに記され、クロージングを迎えている。そこには青空に浮かぶ羽毛が描かれ、イカロスとは異なる二人の羽人の、地上での平和な生活を伝えているかのようだ。
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