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古本夜話271 和田芳恵と博文館『一葉全集』

前回、和田芳恵の『一葉の日記』のことにもふれたので、ここでもう一編書いておきたい。和田は作家であると同時に、樋口一葉の研究者であり続け、決定版『一葉全集』(筑摩書房)も編纂し、また十冊以上に及ぶ研究書や解説書を刊行しているが、その代表作は『一葉の日記』に尽きるだろう。しかしあらためて『一葉の日記』の出版史をたどってみると、彼女の日記が刊行されるまでの経緯と重なるような過程を経ているとわかる。

一葉の日記 (講談社文芸文庫)

私の手元にある『一葉の日記』は昭和三十二年の筑摩書房版講談社文芸文庫版だが、その前史は次のようなものだ。まず昭和十八年に、今日の問題社から書き下ろしで『樋口一葉の日記』が刊行される。この出版社は同年に樋口悦編纂、和田解説『一葉に与へた手紙』も出版し、また和田の『離愁記』も含んだ『新鋭文学選集』、及び「ノーベル賞文学叢書」を刊行しているが、企業整備で統合され、紀元社となったこと以外に、どのような出版社なのか、その詳細はつかめていない。

『樋口一葉の日記』は戦後の昭和二十二年に隅田書房から改題、改訂され、『一葉の日記』として出版され、さらに新たに書き下ろされ、前述の筑摩書房版が刊行されるに至った。そして三十五年に『樋口一葉伝』として新潮文庫、五十八年に『一葉の日記』に戻して、「福武文芸選書」に収録され、続いて福武文庫講談社文芸文庫と続き、半世紀以上にわたって読み継がれてきた一葉の伝記兼研究書となっている。この事実は同書が近代文学研究書としては有数の一冊であることを伝えている。

樋口一葉伝 (新潮文庫) 一葉の日記 (福武文庫)


彼女の日記が初めて収録された『一葉全集』の前編が目の前にあるが、この日記自体も一葉の死後、明治四十一年に十三回忌の記念出版として、博文館から刊行されるはずだったが、中止になってしまい、日記がようやく活字化されたのは四十五年に出た二冊本の『一葉全集』の前編においてだった。その菊判の樋口夏子『一葉全集』前編は大正六年十三版で、順調に版を重ねているとわかる。それに本来であれば、小説が前編に収録されるはずなのに、後編に置かれているのは、巻末の広告に「此比類なき秘書」と謳われているように、日記を前面に出した全集企画だったからだろう。その宣伝文句を引いてみる。

 女史が遺せる所の日記四十四巻は女史が晩年六年間の記録にして、操持不撓なる一女性の立志伝なると共に、感情熾烈なる女作家の忌憚無き告白也。人生に対する偽らざる観察誌也。乱調なりし当時の文壇裏面史也。

しかし刊行に至るまでは順調ではなく、「乱調なりし」経緯をたどっている。一葉の死んだ翌年の明治三十年一月に、同じ博文館から最初の『一葉全集』が出て、続けて六月に斎藤緑雨による『校訂一葉全集』が刊行されたが、これらに日記は収録されなかった。三十六年になって、一葉の妹の邦子が姉の日記を公刊したいと考え、馬場孤蝶に相談した。それを孤蝶は緑雨に伝え、緑雨は邦子から日記をあずかってきて読んだ。そして幸田露伴と森鷗外に相談した。鷗外の意見は差しつかえのある部分を削除し、すぐに出版すべしというものだった。

だが翌年、緑雨は肺結核が悪化して亡くなり、孤蝶を通じて日記は邦子の手に戻り、彼女の奔走で博文館から十三回忌記念出版としての刊行が決まった。日記の浄書には露伴の二人の弟子があたった。ところが鷗外は日記の刊行に反対の態度を示し、手を引いてしまったので、主として露伴が出版を推進することになり、明治四十四年の二巻本全集によって、ようやく実現した。

その『全集』の「序」は露伴が担当し、編集は孤蝶があたり、和田の『樋口一葉』(「日本文学アルバム」3、筑摩書房)によれば、「編纂責任者の孤蝶は、日記に手を加えず、ただ濁点句読点を打ち、読みかなを振っただけで、一字一句も削除せずに世の中へ出した」。孤蝶は『文学界』同人として、藤村や透谷に比して地味な存在であるが、近代出版史や翻訳史の水脈に置くと、一葉の日記だけでなく、本連載でもふれてきたように、平田禿木と並んで、とても重要な役割を果たしている。

さてここで私にとって一葉の日記の中で、最も印象に残る場面を挙げてみよう。それは明治二十五年十二月二十八日の記述である。節季の金策に追われている中で、前日に連絡を受け、「暁月夜」を掲載した『都の花』の発行所の金港堂に出かけ、三十八枚の原稿料十一円四十銭を受け取る。そして一葉は思い出すのだ。

 十六斗(ばかり)の時成し、九十五の銀行に処用ありて此前を通りしに、洋服出立の若き男立派なる車に乗りて引こませしを見た時、天晴れ美ごとや彼れは大方若手の小説家などにて著作ものゝことに付き此の家に出入りする人なるべし、三寸の筆に本来の数寄を尽して人に尊まれ身にきらをかざり上もなき職業かなと思ひし愚かさよ。

そして自分も車では来たものの、貧しき服装に「此あさましき文学者」と自嘲の言葉を書きつけ、明治の文学者の位相を鮮やかに照らし出している。

緑雨は死の前年の明治三十八年に「按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」という著名な一節を含んだ『みだれ箱』をやはり博文館から刊行しているが、一葉の日記のこの部分を読み、思わず肯いたのではないだろうか。

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