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古本夜話283 創元社『文芸辞典』と大谷晃一『ある出版人の肖像』

日本出版社、湯川弘文社に続く錦城出版社の東京進出は、創元社の東京での成功と活躍に影響を受けているのではないかと既述しておいた。しかし創元社にしても、先行する日本出版社や湯川弘文社の出版活動に影響を受けてスタートしたことは間違いないし、それは創業出版が『文芸辞典』であったことに象徴的に表われていると思う。そのネーミングからして、「文芸」は創元社のオリジナルであるにしても、「造り本」としての「辞典」のアイテムは、大阪の出版社や東京の特価本業界の得意な分野でもあったからだ。したがって『文芸辞典』は両者のアマルガムだったと見なすこともできよう。

関西唯一の文芸出版社と称せられた創元社は、日本出版社や湯川弘文社よりも出版人脈が広がっているように見えるし、それにこれらの二社と異なり、社史とよんでもいい「矢部良策と創元社」のサブタイトルが付された大谷晃一の『ある出版人の肖像』(創元社)が刊行されている。それも参照し、まずは創業者矢部良策の父が手がけていた取次の福音社から始めるべきだろう。

福音社の創業者今村謙吉は加賀藩士の家に生まれ、慶応義塾で学び、大阪に出てからアメリカ人宣教師の出資を得て、明治八年に神戸で『七一雑報』を創刊した。またその一方で、キリスト教関係の出版、取次、販売を兼ねた福音社を開業する。『七一雑報』の編集に携わったのは植村正久で、彼は東京に出て、明治十三年に『六合雑誌』を創刊するに至る。福音社をまかされていたのは福永文之助で、二十一年に上京し、福音社東京支店を立ち上げ、今村の援助で、経営難に陥っていた『六合雑誌』の発行所の警醒社を譲り受け、個人経営にしている。

明治十七年に矢部良策の父の外次郎は大阪に移転した福音社に入り、福永の跡を引き受けて働いた。そして二十五年に新・古本を兼ねた書店の矢部晴曇堂として独立したが、今村が病に倒れ、福音社を廃業したことを受け、キリスト教関係書の取次と出版を引き継ぎ、三十年に矢部福音社と名前を変えた。それに伴い、警醒社から始めて東京の出版社との取引も増え、取次としても大阪の一角を占めるようになった。これが創元社の前史といえるだろう。

矢部良策は大正二年に大阪高商を卒業し、福音社に入り、取次営業で出版社を回った。警醒社との特約取引も続いていたが、福永の息子の一良が七年に福永書店を設立し、徳富蘆花の『新春』を処女出版した。この本が福音社に入荷し、矢部はそれを手にして激しく心を揺さぶられた。二代目同士で親しい一良が出版者としてデビューしたのだ。自分も大阪で金尾文淵堂のような出版社を創りたいと切実に思った。

それに関東大震災が起き、東京の出版社と取次が壊滅的被害を受け、大阪の取次在庫は地方書店からの注文でなくなってしまった。関西における出版社の必要性が実感された。そのために東京の出版社は関西の印刷所に仕事を頼むようになり、福永書店も京都の内外印刷を使い、病弱な福永一良に代わって、従弟の小林茂が福音社をしばしば訪れ始めた。矢部と小林はよく気が合った。大正十三年に矢部は福音社を発行所として、実用的な医学子育て書『子供への心遣り』を初めて出版した。

また当時は同人雑誌の黄金時代で、大阪高校の文学グループを主とする『辻馬車』が創刊されていた。表紙は小出楢重が描き、難波の波屋書房の宇崎祥二がその経済的支援を行なっていた。この事情については藤沢桓夫『大阪自叙伝』朝日新聞社、中公文庫)に詳しい。これは同書でふれられていないが、矢部は『辻馬車』の同人たち、特に崎山猷逸と親しかったようで、彼らが持っている新しい知識を利用して、『文芸辞典』を編もうと考えた。東京での取次販売は福永書店に依頼した。いずれ小林に東京支社をまかせるつもりだった。
  (朝日新聞社(中公文庫)

大正十四年にその『文芸辞典』が出版された。それを『ある出版人の肖像』はその内容も含めて、次のように書いている。

 六月十日、良作(ママ)は『文芸辞典』をとうとう刊行した。
  外面描写、第八芸術、高踏派、感受性、正反合、耽美主義、ノーベル賞金、ダダイズム未来派、モノドラマ、裸体主義……
 こういう新しい用語を解説している。文学だけに限らない。美術、演劇、音楽など芸術すべてに及ぶ、巻末には世界の芸術家略伝の九十ページを添えた。崎山猷逸やその仲間も執筆を分担したが、編纂者は創元社編輯部となっている。ここではじめて創元社の社名があらわれた。

手元にある『文芸辞典』を見ると、昭和二年九月九版と順調に版を重ねていることがわかる。発行者は矢部良策とあり、良作が改められている。発兌は創元社で、東京芝区の住所が記されているが、これは小林の自宅である。発売所は前述したように福永書店となっている。大阪の痕跡は印刷者の井上精一郎の大阪市西区という住所だけで、彼は丁寧な仕事をする職人肌の人物であったことから、後の創元社の限定本を引き受けるようになる。

このようにB5上製六百ページ、ブロード装箱入の『文芸辞典』の印刷、流通、販売のアウトラインは判明しているけれど、それらと異なり、企画や編集の経緯と事情、参加した執筆者たちについては、大谷が記している以外のことはよくわからない。だが大阪の出版物として、こうした新しい内容の辞典が編集発行されるのは初めてであり、多くの周辺の人々の参画と支援によって実現した一冊であることだけは間違いないと思われる。

創元社はこの一冊から始まり、様々な曲折を経て、戦後を迎え、東京創元社、新元社、修道社、新樹社、緑地社、三崎書房、絃映社などの多様な出版社を派生させていくことになる。そこではまたそれぞれの特有の出版をめぐるドラマが展開されていくのだが、それらは戦後編で語ることにしよう。

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