大友克洋の『童夢』に続いて、もう一冊コミックを取り上げてみる。それは岡崎京子の『リバーズ・エッジ』で、九〇年代の作品であるが、同じ郊外の風景を舞台とし、やはりスティーヴン・キングの影響を見てとれるからだ。さらに付け加えれば、梶井基次郎の「桜の樹の下には」(『檸檬』所収、新潮文庫)の半世紀後の郊外バージョンのようにも読みたい誘惑にかられてしまうのである。
そうした意味において、『リバーズ・エッジ』は岡崎の他の作品よりも突出して様々な小説や映画からの引用をうかがわせるだけでなく、コミックと挿入された言葉だけのコマが拮抗し、物語に比類なき緊張感をもたらしている。しかもそれは一九八〇年代から九〇年にかけての郊外の根底に生じていたアトモスフィアのように思える。
『リバーズ・エッジ』は次のようなモノローグといっていい言葉によって始まり、そして終わっている。
あたし達の住んでいる街には 河が流れていて それはもう河口にほど近く 広くゆっくりよどみ、臭い
河原のある地上げされたままの場所には セイタカアワダチソウが おいしげっていて よくネコの死骸が転がっていたりする。
これらの言葉はイントロダクションとクロージングの黒地のコマに白抜きで置かれ、巻末の「ノート/あとがきにかえて」で、ほぼ同様の文章が引かれているので、三たびにわたって使われていることになる。そしてこれらの言葉の間に、長い『リバーズ・エッジ』の物語が展開されていくのである。それならば、その物語とはどのようなものなのか。
『リバーズ・エッジ』の物語はイントロダクションの言葉に続いて、「そしてあたし達の学校もその河のそばにある」と始まっているように、その高校と河原、街とそれぞれの家庭を舞台としている。モノローグにこめられたトポスに関するメタファー、及び描かれていく風景から考えても、都市の内側ではなく、郊外における物語だと見なせよう。
ヒロインの若草ハルナは同級生のルミちん、よっちゃんと親しい友達関係にある。ハルナはやはり同級生の観音崎君とつき合い、ルミちんは「38才妻子もち」の愛人のようだ。ハルナは観音崎たちがいじめていた山田君をかばい助ける。山田君は「おとなしめで目立たないひっそりとした男の子」だが、「オシャレでキレイな顔をしている」ので、女子には人気があったけれど、男子には「“攻撃誘発症”のマト」になっていたからだ。山田君は別のクラスの田島カンナや一学年下のモデルの仕事をしている吉川こずえとつき合っているらしかったが、ホモだという噂も飛んでいた。でもハルナは思いがけずに校庭の隅で、やはり自分もミルクを与えていたのらねこにエサをあげていた山田君を見たこと、以前に放課後の屋上で話をしたことがあるぐらいだった。ところがその山田君が学校のロッカーに閉じこめられていることを知り、ハルナは病院の死体置場のような夜の学校に助けにいく。
ハルナは助け出した山田君と河ぞいを歩き、橋をわたる。夜の鉄橋と二人の姿が見開き二ページで描かれ、再びモノローグの言葉が記されている。それは本やTVでいわれている、地球への小惑星の激突やオゾン層の破壊によるフロン量の排出といった、地球の危機のことである。でも「実感がわかない/現実感がない」と続き、それはこうして山田君と歩いていることも同じだと。物語の始まりの前提としての、同時代におけるリアリティの欠如や空白を暗示しているかのようだ。
八〇年代から九〇年代にかけての郊外消費社会がもたらしたものは、書割めいたロードサイドビジネスの風景と生活そのもののシミュレーション化であり、東京ディズニーランドに象徴される擬似イベント化でもあった。しかし山田君との会話、及び「ボク同性愛者なんだ」という彼の初めての告白から、物語に息吹が流れこみ、「海の匂い」を感じ、「汽車の音」も聞こえてくるようにも思われた。もちろん錯覚にちがいないのだが、そのようにして『リバーズ・エッジ』の幕が上がっていく。
山田君が学校に出てきたのは二週間後だった。そしてハルナはまたしても観音崎にいじめられた山田君を助けたことから、その日の夜に秘密の宝物を見せてもらう約束をした。その場所は河原の「ヤブ」の中だった。物語の進行につれ、学校や住んでいる場所や周辺の風景が描きこまれていく。学校に向かう道の途中から見える煙をたなびかせている工場、ハルナがもう住んで十年になる家=マンションは十二階で、そこから同じような郊外の高層マンションが立ち並んでいるのが見える。
山田君はハルナを河原の「ヤブ」の中へと誘う。すると「僕の宝物」である、誰ともわからない人間の死体が現われるのだ。それはもはや肉もついておらず、白骨化していた。山田君は自分が生きているのか死んでいるのか、わからないけれど、「この死体を見ると勇気が出るんだ」という。それはやはり死体を見にきているモデルのこずえも同じだろうし、身元不明の死体は「彼女の宝物」だとも話す。ハルナは初めて本物の死体を見たのだが、「何か実感がわかない」のだ。「もしかしてもうあたしはすでに死んでいて/でもそれを知らずに生きてんのかなあと思った」。そうしてハルナと山田君とこずえは、河原の死体という「宝物」をめぐる共同体を形成して行くことになる。
死体探しの物語として、スティーヴン・キングの『スタンド・バイ・ミー』(山田順子訳、新潮文庫)が想起される。これは原タイトルをThe Body =『死体』とし、映画化にあたって改題されたものだ。あるいは河原がネコの死骸も埋まっている墓地であると考えれば、やはりキングの『ペット・セマタリー』(深町真理子訳、文春文庫)を挙げることができよう。死者と墓地を通じて、明かしえぬ共同体が立ち上がり始めるのだ。それは郊外に生きる彼や彼女たちがゾンビであることを暗示しているかのようだ。
その死体のシーンと重なるように、観音崎とルミのセックスとコカイン吸引の場面が描かれる。死と性は表裏一体であることがオーバーラップし、それが郊外においてもまったく変わらない人間の在り処だと告げているかのようだ。だがそのセックスは当然のようにエロスを伴っていない。
でも何も変わらず、次の日には「いつもどうり」の日常生活が始まっていく。しかし次第に登場人物たちのトラウマも浮かび上がってくる。ハルナの父の不在、観音崎の家庭の問題と性的オブセッションとハルナとのすれちがい、山田君の売春、こずえの過食症、カンアの同性愛者山田君への恋、ルミの援助交際と妊娠、それから事件の数々が召喚されていく。「ヤブ」の中のボロ小屋に住んでいた「ジジイ」が金を埋めたという学校伝説が広まり、死体が見つかるといけないので、夜の河原でハルナと山田君とこずえは穴を掘り、死体を深く埋めてしまう。そして誰がやったのかわからないが、エサをあげていたねこも殺され、ハルナとこずえは学校の花壇に埋める。ルミは観音崎を河原に呼び出し、中絶費用を要求するが、彼に首を絞められ、仮死状態に陥る。それを山田君に目撃され、彼女が死んでしまったと思い、二人で埋めようとしたが、ルミは目を覚まし、姿を消してしまう。そして家に帰り、姉妹喧嘩の果てに、カッターナイフで切られ、血まみれになる。カンナは山田君に対する恋の逆恨みで、ハルナの家に放火し、自ら黒こげ死体となって発見される。そのようにして、山田君とこずえは新しい死体を見つけたのであり、カンナも明かしえぬ共同体の一員に加わることになるのだ。それに今度はハルナと観音崎君の河原での機械的なセックスシーンがオーバーラップしている。
そして「僕らの短い永遠」、「僕らの愛/平坦な戦場」というフレーズが煙草の火と死体を包む炎とともに挿入され、これも黒地の見開き二ページに白抜きで、それらのフレーズを含んだ詩が掲げられる。それが下に示された注によって、SF小説『ニューロマンサー』 (黒丸尚訳、ハヤカワ文庫)などの著者ウィリアム・ギブソンのThe Beloved なる詩だとわかる。それは「この街は/悪疫のときにあって/僕らの短い永遠を知っていた」と始まり、前出のフレーズへとつながり、「平坦な戦場で/僕らが生き延びること」という言葉で閉じられている。ここで二〇〇〇年に刊行された椹木野衣の岡崎京子論のタイトルが『平坦な戦場でぼくらが生き延びること』(筑摩書房、イーストプレス)であったこと思い出される。
「この街は/悪疫のときにあって」にふさわしく、一夜にして多くのことが起きた。だが「惨劇はとつぜん起きる訳ではない」。それは「アホな日常、たいくつな毎日のさなかに」徐々に用意され、進行し、「風船がぱちんとはじけるように起こる」のだ。カンナは「黒コゲ」になり、ルミも姉さんも命に別条はなかったが、たくさんの血が流れ、ルミの赤ちゃんも同様に流れた。「あたし達は/何かをかくすために/お喋りしていた。ずっと/何かを言わないですますために/えんえんと放課後/お喋りしていたのだ」。それでもいつの間にか学年が終わり、終業式、卒業式が続き、こずえは中退し、ハルナは転校する。「部屋が火事にあってもう住めないし(というか団地村のソガイにあってママがヒステリーを起こしたのだ)」と一応は説明されている。観音崎君とも二度と会うことはないだろう。別れを告げにきた山田君とハルナは再び夜の鉄橋を歩く。山田君は死体ではなく、生きているハルナが好きなので、「いなくなって本当にさみしい」と告白する。それを聞いて、ハルナは山田君に見られないように涙を流す。すると今度は確かに「海の匂い」もして、「汽車の音」も聞こえてきた。それでも変わることのない日常がまた繰り返されていくことを示すように、最初に引用した言葉が掲げられ、『リバーズ・エッジ』は閉じられている。
そして最初に挙げた「ノート/あとがきにかえて」の一文が『リバーズ・エッジ』についての作者による見事な自注、言葉による要約、イメージの凝縮となっている。それはギブソンの詩からの影響をも物語っているのだろう。そのコアを引用しよう。
彼ら(彼女ら)はそんな場所で出逢う。彼ら(彼女ら)は事故のように出逢う。偶発的な事故として。
あらかじめ失われた子供達。すでに何もかも持ち、そのことによって何もかも持つことを諦めなければならない子供達、無力な王子と王女。深みのない、のっぺりとした書き割りのような戦場。 彼ら(彼女ら)は別に何かのドラマを生きることなど決してなく、ただ短い永遠のなかにたたずみ続けるだけだ。惨劇が起こる。
しかし、それはよくあること。よく起こりえること。チューリップの花びらが散るように。むしろ、穏やかに起こる。ごらん、窓の外を、全てのことが起こりうるのを。
そしてそれらは忘れ去られていく。だがその傷のひきつれの記憶だけは残るであろう。それが「平坦な戦場で僕らが生き延びること」だとギブソンの言葉で閉められ、「River’s Edge」と結ばれている。これ以上の解説や注釈はもはや不要だろう。だが現在において、その「全てのこと」の中に、「3.11」の出来事を含めなければならない。『リバーズ・エッジ』はコミックと言葉の喜ばしき婚姻とよんでいい作品であろう。そうして引用した部分は郊外が「深みのない、のっぺりとした書き割りのような戦場」で、その「平坦な戦場で僕らが生き延びること」がどのようなものなのかを、「偶発的な事故」のような「惨劇」として描き、提出しているように思われる。そして最後に河原のセイタカアワダチソウの下には死体が埋まっている。それは信じていいことなんだという言葉を付け加えておきたくなる。
なお本ブログ[ブルーコミックス論]でも岡崎京子を論じているので、よろしければ参照されたい。
◆過去の「混住社会論」の記事 |
「混住社会論」16 菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年) |
「混住社会論」15 大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年) |
「混住社会論」14 宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年) |
「混住社会論」13 城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年) |
「混住社会論」12 村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年) |
「混住社会論」11 小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年) |
「混住社会論」10 ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年) |
「混住社会論」9 レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年) |
「混住社会論」8 デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年) |
「混住社会論」7 北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年) |
「混住社会論」6 大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年) |
「混住社会論」5 大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年) |
「混住社会論」4 山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年) |
「混住社会論」3 桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年) |
「混住社会論」2 桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年) |
「混住社会論」1 序 |