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古本夜話297 集文館と『和漢故事成語海』

これまで既述してきたように、特価本業界が「造り本」にしても数多くの辞典や事典類を送り出してきたことは紛れもない事実であるけれども、それらの出版物については収集も研究もなされておらず、出版史においても無視されているに等しいと思われる。

昭和九年に刊行された波多野賢一彌吉光長共編の『研究調査参考文献総覧』(朝日書房、復刻文化図書)にしても、特価本業界の辞典類に関しては多くが収録されていない。これは編纂者の二人が図書館の現場にあったことから考えても、それらが図書館においても軽視されていた事実を物語っていよう。

そうした一冊に『和漢故事成語海』がある。四六判上製で、収録語数は三万、索引を含めて千二百ページ余に及び、束の厚さも五センチを超えている。その特色が「編者識」とする「凡例」に述べられているので、それを引く。

 近時、出版の故事成語辞書は、何れも、漢語にのみ偏して、国語に関するものを挙げず。是れ既に世人の憾みとする所にして編者亦これを歎ずるや久し。是に於て自ら度らず、語辞にして典拠を有するものは、和漢の別無く網羅せんと欲し、これが蒐輯に盡瘁すること数年、今纔に初志の一端を遂ぐることを得たり。

つまり簡略にいえば、近年の漢和辞典は出典を漢語に求めることが多く、日本の書物を挙げていないので、双方から収集してこの辞書を編んだということになろうか。ただ私はそうした辞書のレベルを問う素養に欠けていることもあり、『和漢故事成語海』の内容に関するそれ以上の意見は慎まなければならない。

奥付によれば、出版は明治四十三年で、編者は山崎弓束、増山久吉、渡辺殖の三人で、いずれも初めて目にする名前である。発行所は東京市日本橋区の集文館、発行者は木田吉太郎、発売所は大阪市東区の吉岡宝文館、定価二円五十銭とされている。辞書の場合、その刊行会や編集所が発行者、取次や書店が発売所となるのはよく見られることだが、『和漢故事成語海』は東京が発行所、大阪が発売所というイレギュラーな組み合わせで、この辞典が孕んでいる編集や出版、流通や販売に関する特殊な事情をうかがわせている。

まずは集文館のことを調べると、『日本出版百年史年表』にその名前が見出される。それによれば、明治三十一年木田によって、名古屋で創業とある。発行所の吉岡宝文館は脇坂要太郎の『大阪出版六十年のあゆみ』などによれば、明治後期の心斎橋を中心とする老舗書店で、東京の出版物の取次を兼ね、中等教科書、学習参考書、事典などを主として、神戸などにも支店を出していたようだ。したがって『和漢故事成語海』は絶好の商品であり、その関西における独占取次は大きなメリットをもたらすものだったと想像できる。

ところが事情は詳らかでないけれども、大正期に会社整理に迫られ、神戸支店長だった柏佐一郎が再建を担い、後に社長に就任し、その間に大阪宝文館と改称されたと思われる。この柏や大阪宝文館と小学館の関係などは本連載48でもふれている。なお東京の出版社の宝文館は明治三十四年に大葉久吉が吉岡宝文館の東京出張所を譲り受けて独立し、始めたものである。手元にある明治四十四年の師範学校教科書『心理学』の奥付を確認してみると、東京と大阪の双方の宝文館発兌と記載されているので、その後は共同出版形式を続けていたと推測される。

ここでもう一度、発行所の集文館に戻ると、『和漢故事成語海』と同時期に出された黒川真道を編輯代表者とする「日本歴史文庫」を二冊所持している。これはおそらく明治三十六年に創刊された冨山房の「袖珍名著文庫」を範とし、「同文庫」が『今昔物語』『雨月物語』などの古典を対象としているのに対し、『信長記』『大坂物語』といった歴史文献を収録している。いずれも同じ判型の三五判、巻数も五十巻である。この「日本歴史文庫」についてのこれ以上の言及はまたの機会に譲ることにして、ここでふれなければならないのはその巻末広告で、そこに『和漢故事成語海』の一ページ広告がうたれているからだ。

その「特色」として、「漢和の故事成語を大成したるものは本書を以て嚆矢」で、「最近の各教科書を初めて弘く和漢典籍の材料を集めたる」ことが挙げられている。その惹句からこの辞典が主として中等学校向けに編まれたとわかる。しかしそれ以上の特色は「三版出来!!」の下に、「正価金二円五十銭特価金一円八十銭」とあることで、三割近い値引き価格をふまえ、集文館から吉岡宝文館への出し正味と添え本のことを考えれば、六掛けを切っているのかもしれない。

この他の広告にも『線音双引漢和大辞典』が二円七十銭に対し、二円二十銭、『俗語辞海』が一円八十銭に対し、一円三十銭、『類句作例書翰大辞典』『自修顧問法律事彙』がいずれも二円五十銭に対し、一円八十銭と定価に対して特価値段が付されている。これは本連載223などで、特価本業界の出版物の通常ルートと異なる仕入れ正味の安さについてふれておいたが、集文館の辞典類もそれらに類するものと見なせるし、書翰や法律辞典は特価本業界の「造り本」の定番であることからすれば、集文館もその近傍に位置していたとも考えられる。
俗語辞海  大空社復刻、『俗語辞海』(明治期国語辞書大系)

そのように考えてみると、発行所が東京、発売所が大阪という流通販売システムが採用された理由がわかるように思われるし、往々にして大阪と東京の出版業界はそうしたかたちでつながっていたのではないだろうか。集文館についてはまだ言及すべきことが残っているが、それは稿をあらためよう。

なおここでは「凡例」から判断し、『和漢故事成語海』としたが、国会図書館などでも漢和故事成語海』との二重表記が採用されていることを付け加えておく。また編者の一人山崎弓束は、高山市の国学者、歌人田中大秀の荏野文庫の継承者だったようだ。

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