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古本夜話317 大洋堂、小川菊松、加藤美倫『世界に於ける珍しい話と面白い噺』

本連載で『出版興亡五十年』を始めとする誠文堂新光社小川菊松の著作を拳々服膺してきたが、彼のルーツも特価本業界の系譜上にあると考えていいだろう。小川の出版人生は十六歳で上京し、大洋堂に入ったことから始まっている。小川のことも含んで、大洋堂の大塚周吉が『出版人物事典』に立項されているので、まずそれを引く。

出版興亡五十年 出版人物事典

 大塚周吉[おおつか・しゅうきち] 一九六八〜一九三三(明治元〜昭和八)大洋堂創業者。大阪生まれ。(中略)二五歳で状況、浅草で大洋堂を創業、古本屋をはじめ、のち、日本橋室町に移り、新刊書籍・雑誌を扱い、ついで雑誌の取次もはじめた。また、『座敷と庭のつくり方』などの実用書をはじめ、黒岩涙香なども出版した。関東大震災後小売専業となった。(中略)同店から多くの出版人・書店人が誕生したが、誠文堂新光社小川菊松もその一人。

その大塚の写真と「序」が掲げられている小川の最初の著書『商戦三十年』(誠文堂、昭和七年)において、明治三十年代後半の大洋堂は小売りの他に市内の貸本屋に講談本や村井弦斉、村上浪六などの新小説を卸し、自分がその仕事についていたことを証言している。

また『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』の中で、大正時代には文林堂、大川屋、春祥堂、大洋堂、至誠堂による共同仕入れも盛んだったことを記している。これらは全版の前身にして、江戸時代の地本草紙問屋仲間に連なる東京地本彫画営業組合(後の東京書籍商懇話会)に属する取次と見なしていい。したがって明治二十年代から博文館を中心とする出版社・取次・書店という近代出版流通システムが成長していくのだが、それとは異なる、多様な流通販売をベースとする近世出版流通システムもまだ健在であり、双方が補うようなかたちで出版業界そのものが稼働していたと考えられる。

二年勤めた大洋堂を辞めた小川が次に入ったのも至誠堂だったことは、彼もまた近世出版流通システムの出版業態の影響を受けていることを自ずと物語っている。それは後に創業した誠文堂の出版物や企画にも表われている。実際に彼はそれを自覚し、『出版興亡五十年』で、「他店で発行した絶版本の古紙型などを安く買って、手当たり次第に発行したりしたので、誠文堂の出版は、八百屋式の赤本屋式であるのとまで、評せられたこともある」と書いてもいる。

しかし小川の「絶版本の古紙型」云々というのはその一齣で、彼の新光社などの他社買収はともかく、譲受出版の内幕はほとんど語られていないし、疑問も生じてしまう。ただ誠文堂の出発におけるエピソードからも、そうした手法が導入され、それが小川と誠文堂を成功へと導いたことは間違いないと思われる。最近になって創業期の出版物を入手しているので、それらを検討してみる。

前述したように、小川は大洋堂を経て至誠堂に九年間勤め、明治四十五年に「取次仲買(一名セドリといふ)」の誠文堂として独立した。これは簡単に述べれば、特約出版社から安い正味で仕入れ、また新刊書も入銀という低正味を利用し、大取次、書店、古本屋などで午前中に注文を受け、午後に卸すことを日課とする仕事で、入銀の新刊書は東京市内一円で五、六百部の買切注文があり、口銭は売上の五分平均に及ぶので、立派に生活できたという。

そして大正二年に澁川玄耳の『わがまゝ』を処女出版したことから、本連載247などでふれた有楽社の中村有楽と親しくなり、そのほとんどの版権を譲り受け、その中の澁川の『日本見物』『世界見物』を藪野椋十名義の縮刷版で刊行し、広告を駆使し、六万部を売り上げた。次にこれもまた澁川の斡旋で、米窪太刀雄の『海のロマンス』本連載203などの中興館矢島一三と共同出版し、一万数千部を売る。これは菊判六百ページ近くに及ぶ大冊だが、私の所持するのは大正三年二月発行、三月三版とあるので、世界航海日記の内容、及びコンラッドに比すとある夏目漱石の序文などの相乗効果で話題をよんだのだろう。奥付には発行者として矢島と小川、発売元として誠文堂と中興館が記され、共同出版の事実を裏づけている。共同出版が近世出版流通システムに基づいていることはいうまでもないだろう。

海のロマンス

だが小川がいうように「誠文堂中興の基礎を築かしめた」のは十六冊刊行し、百二十万部を売った加藤美倫の「是丈は心得おくべし」シリーズだった。「ありし日の加藤美侖(ママ)君とその友人」なる鮮明な写真の収録もある『商戦三十年』において、小川はその出会いを次のように述べている。ルビは省略する。なお加藤のことは本連載60でも取り上げているし、「原田三夫の『思い出の七十年』」(『古本探究』所収)でもふれている。
古本探究

 大正七年十一月五日の事であつた。店で仕事をして居ると、上下黒羽二重の揃ひの着物に仙台平の袴を穿き、漆の如き長い髪の毛を丁寧に後ろに櫛づき、一見神官かさもなくば大本教の幹部どころと云つた格の男がやつて来て「御主人は?」と声をかけるのだつた。見れば仲々どうして、眉目秀麗、一寸お羽打ち枯らして居るが、一と癖も二た癖もあり気な男である。

この場面を読むたびに、私はいつも特価本業界のプロフィルの定かでない著者や作家や編集者、言葉を換えていえば、謎めいた人々を想い浮かべてしまう。小川の文章はそうしたイメージを喚起させるし、実際に誠文堂にベストセラーをもたらしたのだから。まさにこれは加藤が「是丈は心得おくべし」の原稿を持ちこんできた場面に他ならないのだが、誠文堂から出された加藤の著書を入手してみると、この回想が思い違い、もしくは意図した脚色ではないかという事実に突き当ってしまう。

それは加藤を編著者とする『世界に於ける珍しい話と面白い噺』で、大正七年十一月十九日に刊行されている。したがって小川と加藤の出会いはこの一冊だけ見ても、それ以前であることは明らかだし、加藤の検印がないことからすれば、これは買切原稿だと推測される。おそらく小川と加藤の出会いはそのような前史があり、そこから「是丈は心得おくべし」の企画が始まったのではないだろうか。そして明かすことができない何らかの事情があり、このような回想が偽史的に仕立て上げられたのではないだろうか。

なおその後の大正十年に、小川と加藤は衝突して別れ、加藤は興文社の石川寅吉と親しくなり、円本の『日本名著全集』を企画し、『小学生全集』もそのブレインだったようだ。しかし後者の大宣伝が行われている昭和二年四月に、中耳炎のために三十八歳で亡くなったという。

小川は加藤が病床から誠文堂の円本『大日本百科全集』に寄せて送ってきた手紙を引用し、「思へば此の人も、あたらあり余る才を抱いて居りながら、惜しい一生を終つた仁であつた」と結んでいる。『大日本百科全集』については本連載162で取り上げているし、加藤に関してはこれからも追跡するつもりでいる。

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