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古本夜話321 磯部甲陽堂と岡田三面子『随筆虚心観』

本連載319でリストアップした、明治四十年時点での特価本業界の流通や販売に携わる十四の取次や書店の中に、磯部甲陽堂があった。この磯部甲陽堂に関しては『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』の中で、音曲本、どどいつ、小唄などの本を盛んに出版していたという、わずかな証言しか掲載されていないが、前回の香蘭社と異なり、こちらは大正七年の東京書籍商組合員『書籍総目録』に収録されている。

また夏川清丸(帆刈芳之助)の『出版人の横顔』に見える、その経営者磯部辰次郎の紹介によれば、山梨県出身で、明治三十二年に上京し、初めは古本と貸本業を営み、特価本業界の長老となり、出版に転じて、通俗書から始め、硬軟合わせ、多くの良書を送っているという。

その七十点ほどの出版物を見ると、確かに声曲文芸研究会編による端唄、長唄、都々逸といった本が九冊並んでいて、『三十年の歩み』における証言は昭和十年頃のものなので、これらが磯部甲陽堂のロングセラーにして、柱だったことになる。それ以外は戦記から養鶏法といった雑多な出版の感が強いが、目を引くのは松崎天民が八冊、島川七石が五冊に及んでいることだ。『日本近代文学大事典』で確認すると、そこにある『淪落の女』『人生探訪』『人間世間』は松崎の代表作とされていて、松崎と磯部甲陽堂の深い関係を想起させる。その後の調べによれば、島川は相撲記者にして小説家でやはり多くの新聞小説、家庭小説を書いているようだ。『富代夫人』なるタイトルからすれば、おそらくマイナーな家庭小説家ではないだろうか。

日本近代文学大事典
その磯部甲陽堂の本を一冊だけ持っている。それは岡田三面子編著の『随筆虚心観』で、昭和二年に刊行されている。その奥付裏の巻末広告には同じ著者の『寛政改革と柳樽の改版』、松村範三『川柳日本俗説史』本連載306で少しふれた笹川種郎『江戸情調』などが掲載されていて、これらは共通した企画であり、先の『書籍総目録』にはなかったタイトルであることからすれば、大正七年以後に入った編集者が手がけているのかもしれない。

この変わったペンネームの岡田三面子=岡田朝太郎を『日本人名大事典』で引いてみる。

 オカダアサタロー 岡田朝太郎(一八六六〜一九三六) 刑法学者、法学博士、古川柳研究家。明治元年五月岡田平八の長男に生る。同二十一年東京帝大卒業、(中略)のち東京帝大教授となり、法学博士の学位を受け、我が国刑法学者として重きをなした。明治三十八年日露講和談判に際し、戸田寛人らと対外硬を主張し罷免されたいはゆる「帝大博士」の一人である。(中略)傍ら趣味として古川柳研究と『柳樽』『萬句合』などの古典蒐集につとめ、三面子、虚心などの号を以て知られた。昭和十一年十一月三日没、年六十九。著書に刑法に関するものの外、寛政改革と柳樽の改版、虚心観などがある。

この記述に従えば、岡田の古川柳研究家としての主著は磯部甲陽堂の二冊ということになり、特価本業界の出版社としての磯部甲陽堂のイメージが、この時代から変わりつつあったことを告げているのだろうか。

この『随筆虚心観』は長短合わせ一五九に及ぶものから編まれ、「序」によれば、大部分は大正十三年から昭和元年にかけて、明治大学の法政経済専門雑誌『法律及び政治』に「幾分の和らか味を添へようとの趣旨に基いて寄稿した」随筆とされている。とはいっても、専門の刑法と趣味の古川柳を視座として、日本の多くの江戸時代の随筆類を始めに、東西の古典なども縦横無尽に渉猟し、まさに三面子的随筆集で、いずれも読みごたえがある。

読みながら思い出されたのは、『集古』やその会員である判事の尾佐竹猛のことだったが、やはり『集古』の記事への言及と尾佐竹も出てきて、同じ文化環境を共有することで、このような一冊が刑法学者によって送り出されたのだと納得した次第だ。さらにまた倉田卓次の『裁判官の書斎』(平凡社ライブラリー)なども思い出された。

裁判官の書斎

その岡田と『随筆虚心観』の紹介のために、どの一編をとろうかと迷ったのだが、私の好みと最近の出来事とが重なっていることもあって、八六の「かつを」を選ぶことにした。この「かつを」はまず名称として英仏独語の学名が挙げられ、それに十三に及ぶ漢字が続き、次に古書から景行天皇五十三年、つまり千八百余年前における磐鹿六獦命(いはかむつかりのみこと)の安房の浦での堅魚(かたうお)釣りの場面を引用し、「かつをと云ふはかたうをの約(つづ)まりたるなり」との注を添えている。

それから かつをの体形、体色、去来、釣と網を経て、鰹釣とその「リコオド」に入る。岡田は十年間にわたって自らも鰹釣に数十回出かけていて、その「リコオド」=最高記録を書きつける。それは大正八年六月二十三日のことで、漁船をチャーターし、三崎から沖合十七、八町のところで二時間余に、岡田は七十五本、十一人全員で千二百余尾を釣り上げ、帰りの船足が沈むほどの大漁だったという。その夜、一本は調理して食べ、残りは本職に頼んで鰹節として友人数名に贈ったが、それでも二年分以上の自家用が残ったのである。岡田は個人的エピソードにふれることは少ないので、これは語りたくなる大漁の「リコオド」だったと想像される。

この後もまたかつをの料理、盛衰で、次に初松魚の登場となる。岡田は川柳から初松魚を詠んだものを並べ、四月初漁のものを初松魚と称し、高きを恐れず、争ってこれを求めた江戸時代後期の世相を浮かび上がらせている。それは「初松魚カツカチめいて(急ぎ)て江戸へ出る」から始まる十六句である。そして最後は松魚売で、坂東三津五郎演じるところの『松魚売勇商人(かつをうりいさみのあきうど)』の口上を挙げ、それは「勢出せそこだぞ商ひ大事、得意旦那は八百八町、八千八声時鳥、初といふ字を勇みにて、松魚ゝゝと走り行く」で終わり、この「かつを」という随筆も閉じられている。

実はこの四月に、自宅で初鰹パーティを催したばかりである。この随筆集の印象を誤解させてしまうおそれもあるが、これを選んだことを諒とされたい。

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