出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話327 井上勤訳『アラビヤンナイト物語』と岡村書店

当初十数回ほどのつもりで始めた特価本業界に関する言及もかなり長くなってしまったので、ひとまず終えることにするが、ここで井上勤の『アラビヤンナイト物語』にふれておきたい。

昨年杉田英明『アラビアン・ナイトと日本人』岩波書店)が刊行された。これは日本における『アラビアン・ナイト』の翻訳と紹介の過程、それに伴う文学や芸術や大衆文化への影響を具体的に論じた千ページを超える大著で、教えられることが多かった。また杉田はサイード『オリエンタリズム』平凡社)の監修に名前を連ねているし、前嶋信次、池田修のアラビア語原典訳『アラビアン・ナイト』東洋文庫)への言及も含んでいるので、まさに包括的な研究とよんでいいだろう。

アラビアン・ナイトと日本人 オリエンタリズム アラビアン・ナイト

しかしそれでも無理からぬこととはいえ、翻訳出版史については拙稿も参照されているが、特価本業界との関連、及び「造り本」と譲受出版に理解が及んでいないこともあって、本文においてそれらへの言及はほとんど見られない。具体的な例として、明治十六年に出された第二の邦訳とされる井上勤訳『全世界一大奇書』を挙げてみよう。

杉田はその主な出版として、報告社と報告堂の最初の十分冊、報告社の最初の五分冊の合本(初編)、報告堂の後半の五分冊の合本(第二編)、報告堂の十分冊合本、廣知社の十分冊合本+第十一分冊の途中(六七二頁まで)、福田栄造の十分冊合本+第十一分冊(七〇二頁まで)の六種類を取り上げている。そして井上訳の底本がフランス語のガラン版刊行後に大量に出回った匿名の英訳重訳のニンモ社版『アラビアン・ナイト』、所謂「三文文士出版」であることを、英訳と挿絵を対照させ、立証している。ここでは「三文文士出版」にふれられないが、偶然ながら私も以前に「三文文士の肖像」(『ヨーロッパ本と書店の物語』所収、平凡社新書)を書いているので、よろしければ参照されたい。

ヨーロッパ本と書店の物語

これらの『全世界一大奇書』の合本の扉などには、いずれも「原名アラビヤンナイト」とあり、それ以後の体裁を変えて版を重ね、広く読まれたため、後世への影響も大きかったと杉田は記している。しかしこれらの版の刊行は明治十六年から二十一年にかけてであり、少部数高定価だったと考えられる。しかもまだ出版社・取次・書店という近代出版流通システムは立ち上がり始めた時期で、広く読まれるインフラ状況に至っていなかった。それは分冊にしても合本にしても、報告社と報告堂の共同出版のかたちをとり、その後の版が廣知社、福田栄造へと移っていったことにも表われていよう。

明治後期における『全世界一大奇書』の行方は詳らかでないし、杉田もかろうじて「注」において、挿絵を省き、本文のみを組み直した井上訳『改訂アラビヤンナイト物語』(文録堂書房、服部書店、明治四十一年)、同『アラビヤンナイト物語』(岡村書店、同四十三年)の改題刊行を伝えているだけである。

後者の岡村書店版は所持していて、これは大正八年の縮冊版で、三六判、六百十頁余、定価は一円四十銭である。奥付の著訳者は井上勤、編纂兼発行者名は岡村庄兵衛、井上の押印はなく、ただ「不許複製」と記載されている事実からすれば、おそらく『全世界一大奇書』は明治末期に版権が岡村書店に移り、改題され、譲受出版として刊行に至ったのであろう。そして大正に入っても版を重ね、縮冊版本も出されるようになったことを示している。

口絵は四枚が付され、おそらくこれらは『全世界一大奇書』からの転載だと見なせるが、冒頭の「解説」は大正八年六月付で、「それがし」によって記されていることから、縮冊版刊行に際し、加えられたものと考えられる。「アラビヤンナイト物語は、昔から天下の奇書として有名なものである」と「それがし」は始めている。それは彼がこの縮冊版の編集者であることを物語っているし、「それがし」という署名を記したのは一体誰なのであろうか。

杉山は井上が絶えず滝沢馬琴を意識し、訳文は文飾に富んでいると指摘している。それを確認するために、冒頭の一節を引いてみる。

 古き世の事とかや、茲に比耳斯亜の国は世々の国王其の威権を振ひ、四隣を蚕食して漸く版図を拡め、印度諸島を包ね岸世壽を超て遠き支那に達す。中に就て当時尤も優れたる一王あり、偏へに政略に富み驍勇比倫なく常に精兵を養なひに政を施こすを以て国民鼓腹の思をなし、内治外望其宜きを得比隣の邦国為めに兢々として之を恐れざるものなかりき。

後のバートン版の大宅壮一訳と比べると、かなり印象は異なるにしても、この井上訳が明治から大正にかけての最も大部な翻訳であり、これもまた杉山が立証しているように、泉鏡花日夏耿之介北原白秋、木下杢太郎にも大きな影響を与え、それがきっかけとなり、レイン版の日夏訳『一千一夜譚(アラビヤンナイト)』(『世界童話大系』12巻所収、近代社)、同じく森田草平訳『千一夜物語』(『世界名作大観』所収、国民文庫刊行会)が、いずれも大正十四年から刊行されることになる。

だが日夏訳にしても森田訳にしても、前者は三巻本、後者は四巻本で、両者とも高定価の予約出版方式での刊行であったために、井上訳に比べ、読者が限られていたことは確実である。したがって岡村書店の一巻本『アラビヤンナイト物語』が最も安く、特価本のルートも含め広く流通販売され、多くの読者へと渡っていったはずだ。報告堂版もそれなりに売れたとは伝えられているが、定価からわかるように、特価本業界の刷り部数は多いので、その比ではないと思われる。それだけでなく、この一冊は様々な「造り本」、絵本や児童書の再話の種本となり、多くのヴァリアント版が生み出され、さらに多くの読者を獲得し、西洋文学全体に匹敵する広範な影響をもたらすことになったにちがいない。

なお揚げ足をとるようで恐縮だが、もうひとつ付け加えておきたい。杉田は三島由紀夫の『アラビアンナイト』読書体験に関して、『定本三島由紀夫書誌』薔薇十字社)により、金正堂版による中島孤島訳としている。だがこれは私が「近代社と『世界童話大系』」(『古本探究』所収)で、三島の回想を引き、装丁から考えて、日夏耿之介訳と書いているほうが正しいと思われる。これも特価本業界と密接に関連していて、近代社の破綻に伴い、『世界童話大系』は版権が東京は誠文堂、大阪は金正堂に移り、判型も異なって刊行されている。したがって、三島の書庫にあった金正堂版は、戦後になって古本屋で購入したものと思われる。

定本三島由紀夫書誌 古本探究

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら