出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話332 安谷寛一、アルス版『ファブル昆虫記』、『ファブル科学知識全集』

アナキスト系人脈によるアルスの出版物として、『大杉栄全集』の他に『ファブル昆虫記』全十二巻と『ファブル科学知識全集』全十三巻を挙げていいように思う。

ファブル科学知識全集 (『ファブル科学知識全集』第8巻、『日常の理化』)

ただ戦前の『昆虫記』というと、岩波文庫山田吉彦林達夫訳が定番であり、詳しい読者だとしても、アナキスト系人脈による翻訳といえば、大杉や椎名其二たちの叢文閣版を連想するだろうし、アルス版はあまり知られていないのではないだろうか。

昆虫記 (岩波文庫

しかしこのアルス版も、岩波文庫叢文閣版と同時に翻訳出版が進行していたし、しかもアルスにあって特筆すべきなのは、『科学知識全集』も同時に刊行することによって、ファーブルの全集を目論んでいたと考えられる。

まず『昆虫記』の巻数の訳者を示す。1 岩田豊雄獅子文六)、2 小林龍雄、3 根津憲三、4 落合太郎、河盛好蔵、5 平林初之輔、6 内田伝一、7 神部孝、8 三好達治、9 豊島与志雄、川口篤、10 山田珠樹、水野亮、11、12安谷寛一である。

次に、『科学知識全集』の訳者を示すが、こちらは各巻のタイトルも ともに挙げておく。

1 『天体の驚異』  安成四郎訳
2 『地球の解剖』  安谷寛一訳
3 『自然科学物語』 安成四郎訳
4 『科学の不思議』 安成二郎訳
5 『田園の保護者』 平野威馬雄
6 『田園の悪戯者』 宮島資夫訳
7 『鳥獣の進化』  安成二郎訳
8 『日常の理化』  安谷寛一訳
9 『植物の世界』  草生葉爾訳
10 『昆虫の生活』  小牧近江訳
11 『昆虫の習性』  平林初之輔
12 『本能の秘密』  大木篤夫訳
13 『農業化学の話』 安谷寛一訳

『昆虫記』はこれも二十年近く前に浜松の時代舎で購入したもので、全巻の内容、訳者などを確認している。だが『科学知識全集』は5の『田園の保護者』しか入手していないし、明細リストも古書目録なども参照して挙げていることもあり、これからの言及は『昆虫記』にとどめたい。ただその前に、『科学知識全集』の訳者のことだけにふれておけば、『昆虫記』が東京帝大仏文科を中心とするアカデミズム人脈であることに対して、安成二郎、宮島資夫、小牧近江などから社会運動系の訳者によっているとただちに察せられるだろう。ちなみに『科学知識全集』は大正十一年に出された「ファブル科学知識叢書」の改訂版で、訳者の異同も見られる。

両者の翻訳を兼ねているのは安谷寛一で、彼がこれらの翻訳のみならず、企画を推進したと考えて間違いないと思われる。それならば安谷とはどのような人物なのか。『日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版)の立項を要約してみる。明治二十九年兵庫県城崎郡生まれ、高等小学校卒業後、フランス人経営の貿易商社に入り、領事館付属フランス語学校に学ぶ。『近代思想』を通じて大杉栄を知り、フランス語雑誌を出したり、神戸で社会思想研究会の変則仏学塾を始め、多くの人々が出入りし、その一人は本連載28でふれた『香具師奥義』(文芸市場社)の和田信義であり、安谷も一時香具師となっていたようだ。大杉の死後、様々なアナキズム系雑誌に関係し、昭和二年には『未完大杉栄遺稿』を金星堂から刊行している。

日本アナキズム運動人名事典

これが『事典』の要約であるが、安谷の編集者としての仕事は大杉の遺稿に限られ、まったく語られていない。しかしアルスのふたつの仕事に見られるように、安谷は確かに編集者や訳者であった時期がある。なお私は、安谷がアレクサンダー・バークマンの獄中記の訳者だったことに関して、「ようやく入手した『獄窓の花婿』」(『古本探究2』所収)なる一編を書いている。
古本探究2

さてここで『昆虫記』に戻ると、その第一巻の巻末にだけ、「アルス版日本訳に就て」という一文が「アルス研究室」名で掲載され、『昆虫記』の完全翻訳を唯一人にゆだねれば、少なくとも十年は必要だし、ファーブルに見合った訳者は求められないと述べ、次のような方針を表明している。

 そこで、このアルス版日本訳は、主として我が国の代表的フランス文学者に委託してこれを完結する。「昆虫記」は限られたる博物学の書と云はんよりは、文学の書、詩集であつて、全巻ファブルの日記であり、自伝である。博物学者、詩人、哲学者、この三つを兼ね備へ得ない場合、練達せる文学者を以てすることが極めて適当と考へられる所以である。
 そして、昆虫名に就ては、年来のファブリアンである訳者の一人を以てこれに当て、全十一巻の博物学上の特殊語の統合を計つた。

この「年来のファブリアンである訳者の一人」とは他ならぬ安谷と見なしていい。第十一巻所収の「ファブル著作目録」は「アルス研究室」の安谷名で出され、第十二巻の「索引編輯を了えて」も安谷により、全十一巻の昆虫名は「原則としてファブルの趣旨に基いて」、「筆者の独創に依つて邦訳した」との言があり、その詳細な理由も述べられているが、それには言及しない。その代わりに、安谷の「生涯をファブル研究、本能問題に捧げよう」という「追記」の言葉に記しておけば充分であろう。また第十一巻は安谷訳のルグロの『ファブルの生涯』にあてられ、その「訳者序」で、「ファブル全著作刊行」の仕事について、「師匠であつた故長田秋涛」と「故人大杉栄」の「相異なる二つの塊(ママ)に献げる」とも記されている。前述の『事典』などに明らかにされていなかった安谷のプロフィルが少しずつ見えてくる。

おそらく安谷は少年の頃に長田と出会い、彼を「師匠」としてフランス語を習得したのではないだろうか。そしてフランス語研究を通じて、大杉栄とも知り合うようになる。さらに安谷の変則仏学塾には本連載などでふれた佐々木孝丸も出入りしていたし、彼は一時期アルスの編集者でもあったから、大杉や佐々木との関係を通じて、安谷は出版業界に接近し、アルスの「ファブル全著作刊行」に携わるようになったのではないだろうか。

だがその後の安谷の軌跡はたどれないのだが、昭和七年に『釣の新研究』(駿南社)、同九年に『鮎を上手に釣る』(奥川書房)という本を出している。これは拙稿「川漁師とアテネ書房の『「日本の釣」集成』(『古本探究』所収)を書く際に見つけたもので、奥川書房は釣之研究社でもあり、本連載39などでふれたように、雑誌『犯罪実話』を発行していた版元である。ここにもアナキスト人脈が絡んでいるように思われる。

古本探究

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら