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古本夜話334 長田秋涛『図南録』の再刊

前回、中村光夫の長田秋涛伝も兼ねる小説『贋の偶像』に登場する彼の弟子安川老人が、アナキストの安谷寛一をモデルにしていると記しておいた。

『贋の偶像』において、安川老人は秋涛会の中心人物で、二冊のパンフレットを刊行し、それは秋涛に関する貴重な資料とされている。秋涛会については中村の筆に語らせよう。

 秋涛会は、秋涛の死後、彼の人柄を愛惜する友人たちが造つた会で、結成当時は会員五百人を数へ、故人の交際の広さを反映して、政治家、官吏、実業家、軍人、学者、文士、画家、俳優など雑多な分野から参加者を得てゐた。
 しかしかういふ会の常として、あまりまとまりはなく、年に一回の忌日に、ゆかりの深い紅葉館で追悼の宴会を開くだけで、事業としては前記のパンフレットを二冊だしただけであるが、ともかく二十年あまり、二十三回忌まで続いた。

この後に中村は、会の名士たちと世話役の安川老人の関係はしっくりいっておらず、それが安川の宿願の秋涛の伝記に手をつけられなかった原因だと付け加えている。

安川の二冊のパンフレットの内の一冊は、秋涛会編『長田秋涛居士』(昭和十二年)、もう一冊はおそらく秋涛の遺著『図南録』に関するものだったと思われる。『図南録』は秋涛の没後の大正六年に実業之日本社から刊行され、昭和十八年に教育科学社から再刊されている。前者は未見だが、後者は手元にある。こちらは大正六年の実業之日本社版に大隈信常、姉崎正治市島春城の「序」、弟の長田戒三の「南進三十年の思出」、秋涛会名での伝記と『図南録』の解説からなる「長田秋涛と南方経綸」が加わり、単なる再刊ではない。

昭和十八年の教育科学社版の特色は、明らかに七十ページに及ぶ解説「長田秋涛と南方経綸」の収録であるが、その「後記」は秋涛会の淵真吉の名前で書かれ、本文中には淵の著書として、『南方民族運動史』が挙がっている。また淵は教育科学社版の「編纂に当つた」と記し、「長田秋涛と南方経綸」は『長田秋涛居士』を主として頼ったもので、その「解説の一切の責任は私にある」とも述べている。

だが『贋の偶像』における安川の述懐によれば、再刊にあたって秋涛の弟からは彼の南進論者の側面を強調するようにいわれたこと、及びその生活に深くふれために親族たちから出入り差し止めになったという。また中村も「『図南録』の序文は、彼が秋涛について書いた文章のうちで一番長いもの」だと言明していることなどからすれば、「長田秋涛と南方経綸」は以前に出した二冊のパンフレットに基づき、安川が書いたと断定していいだろう。すなわちフィクションに仕立てたにしても、安谷=安川=淵真吉は同一人物だと判断するしかない。

想像するに、大杉栄の近傍にあり、その死後『未刊大杉栄遺稿』を編んだ安谷は昭和十年代になって、師の長田秋涛に同化するように、アナキストから強固な南進論者へと変貌していたのではなかったか。それに同時代において、フランス語に通じた多くの人々が南進していたのであり、例えば小牧近江にしても仏印に向かっていた。そのような南進論の全盛を物語るかのように、教育科学社版の初版は八千部と奥付にある。この問題については本連載で後述するつもりだ。

さてここで後回しになってしまったが、秋涛の『図南録』を紹介しておくべきだろう。彼は同書を「敵国外交の不振今日より甚だしきは莫く、当局徒らに右顧左眄し、逡巡踟躕して以て邦家百年の計を愆らんとす。南下か北上か、今にして之れを決せずんば、蓋しの千載臍を噛むの悔いあらん」と始めている。

秋涛の主張は英仏留学と政財界の活動を通じての経験に基づく「北守南進」論で、地理と人種的見地からロシアや中国とは和親を旨とし、年々増加する日本の人口は南方移住をめざすべきで、その南方に英国が必要以上の植民地を有することは日本にとっても南方諸国にとっても憂慮すべき問題だと見なしている。それは実際に秋涛が「自営的南進」の実践として、明治四十二年にマライでゴム園事業を始めたことにも表われている。教育科学社版には口絵写真として、ゴム園における秋涛と弟の姿が収録されている。

それゆえに秋涛は南進論の実践的先駆者の一人でもあり、大正三年の『図南録』に記された南方視察は十数回を数えるもので、同時にこの旅で病を得て没することになり、同六年に遺著として送り出されたのである。「長田秋涛と南方経綸」の記述によれば、それは発売以来何度か版を重ね、「この当時対南方の認識の甚だ稀薄であつたにも拘はらず、その流麗暢達なる文章と、歴史を語り、現実を解明しつくす論旨は、よく当時の人にすら待望愛読せられた」ことの証明になろう。そのことを確認するために、『実業之日本社七十年史』を繰ってみたが、『図南録』に関しては何もふれられていなかった。

しかし昭和十八年の再刊が意味するものは、大東亜共栄圏プロパガンダ的一冊としてであり、本連載119120でふれたハウスホーファーの『太平洋地政学』の翻訳や平野義太郎たちの太平洋協会の活動と連鎖していたと考えられる。そのような渦中に安谷も置かれ、アナキストから南進論者へと変貌し、『図南録』の再刊が企画されたのではないだろうか。

なおその後、片山真吉名義の『南方民族運動史』(モダン日本社、昭和十七年)を入手している。その「序」には「南洋経済研究所別室にて」とあるが、安谷だとの確証はつかめなかった。

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