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古本夜話349 石原憲治、秋葉啓、聚楽社『日本農民建築』

石原大塚巧芸社、緑草会、横山信の『民家図集』と今和次郎『日本の民家』の系譜を引く石原憲治の『日本農民建築』全十六輯が、聚楽社から刊行され始めたのは、昭和九年である。『民家図集』全十二輯の出版は昭和五年から六年にかけてだったので、まさに符合していると見ていいだろう。

日本の民家 岩波文庫版)(日本図書センター復刻)

この『日本農民建築』は昭和四十七年になって、建築専門書店の南洋堂から全八巻が復刊されている。それに伴って、石原の『日本農民建築の研究』の改訂復刻版も出され、これまで定かではなかった、石原と出版の経緯も明らかになった。同書に示された略歴によれば、石原は一九一九年に東京帝大建築科を卒業して大学院に進み、民家を研究し、その後東京市役所に勤め、関東大震災復興事業、営繕業務に従事し、三四年から四三年にかけて『日本農民建築』全十六輯を刊行とある。第二次世界大戦中はバンドン工科大学教授となり、インドネシア民家調査に携わり、戦後は都立大、明大、日大教授を歴任したという。

『日本農民建築の研究』の冒頭には「回顧展望」が置かれ、住居研究の発端は鳥居龍蔵の考古学に足を踏み入れたことで、今和次郎『日本の民家』とは異なる組織的な民家研究をめざしたとされ、白茅会の存在と活動は知らなかったと記し、次のように述べている。

 私は一九三二年から、右の総論的研究に対して、各論ともいうべき各都道府県の地方調査をまとめて日本農民建築の出版を企て、これを美術出版の聚楽社秋葉啓氏に引き受けられて一頁大のグラビア写真入り手漉き和紙表紙、製本にて一九三四年第一輯から最終の第十六輯を一九四三年に、一〇年間で完成することができた。これは戦時中に行なわれた困難な社会情勢のもとに遂行され、その前後の二十数年間に全国を歩いてまわったわけでもあるが、私の前には、全く文献のない農村地帯を訪ねるたびに新しい発見があり、見るもの聞くものすべてに驚きと同時に喜びをおぼえた。

私は南洋堂の復刻版を見ていないし、ここに述べられた戦前の『日本農民建築』も一冊しか所持していないが、その一冊だけでも感慨をそそるところが大なので、あえて書いてみる。それは昭和十三年刊行の第十一輯の山梨、神奈川、静岡県の農家を収録したものである。四六倍判で、確かに石原がいうように手漉き和紙の表紙カバー、耳折れ仕立てとなっている。発行者は秋葉啓、発行所は本郷区根津須賀町の聚楽社で、「グラビヤ印刷者」は大江恒吉、定価は三円五十銭である。その定価と判型に加え、奥付に取次名の記載がないことからすれば、大塚巧芸社の『民家図集』と同様に、会員制頒布出版だったと考えられる。

『民家図集』と『日本農民建築』の相違は、前者が様々な民家と写真が中心だったことに対し、後者は農家だけを取り上げ、それに間取りなどの図版を多く配置し、詳しい解説を施していることだろう。それが石原の述べている農民建築の組織的研究を意味していることになる。さらに私的な印象を記せば、農家に特化したことで、農業と生活と家の三位一体のイメージがより生々しく感じられる。やはり民家のことも多く見ている宮本常一が民俗写真家の須藤功に、民俗学において芸術写真をめざしてはならない、多くの民俗事象を語る民俗写真を撮るべきだと話しているというが、『民家図集』はその洗練の度合いが芸術写真に接近し、『日本農民建築』は民俗写真の領域であるといってもいいかもしれない。

山梨県のところに上九一色村の「部落景観」とそのうちの一軒の農家の写真がある。縁側には秋らしき陽射しが当たり、布団が干され、その庭先では三人の子供が遊んでいる。家も風景もまださほど変わっていなかった昭和三十年代まではどこでも見られたのどかな風景であった。しかしこの上九一色村の「景観」の中に、異物的というしかないオウム真理教の建築群が出現することなど、誰一人として想像しなかったにちがいない。

静岡県の農家の風景はさらにノスタルジアをこめて迫ってくる。これらの風景も昭和三十年代までは身近なものであったからだ。とりわけ多く掲載されている間取りと屋敷の構図は、写真とは別で、私が今でも住んでいる地方のものが多い。それは東海道平地一帯に大多数を占める「整型の四間取2×2」を示す目的ゆえと思われる。それに伴い屋敷の馬や牛小屋、物置、外便所、さらに庭や防風林といった配置も描かれ、かつて母屋の前の庭を「大外(オオド)」と呼んでいたことを思い出した。

農家が建てられている屋敷内には井戸も畑もあって、畑には必ず果樹と野菜が植えられ、樹林は防風林であるばかりでなく、たきぎともなり、夏には日を遮り、風ももたらし、さらには「農民建築」の材料を提供するものでもあった。それゆえに農民建築を中心とする居住地は、まさに「生きられる空間」に他ならず、私たちの多くもまた昭和三十年代まではそのようなトポスにおいて生活してきたことになる。

このように書くと否応なく想起されるのは、近年亡くなった多木浩二『生きられた家』岩波現代文庫)で、これは昭和五十年に出された篠山紀信の民家写真集『家』のテキストとして書かれたものだ。つまり篠山の『家』は『民家図集』『日本農民建築』を継承し、多木の「民家はまもなく消えてしまうだろう。(中略)おそらく農村そのものが消えようとしているのだろう」という時点において出現した一冊であり、それはちょうど白茅会の『民家図集』の刊行から半世紀が過ぎようとしていた時であった。

生きられた家

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