出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話354 飯田豊二と金星堂「社会科学叢書」

もう一冊土方定一の翻訳書を挙げておく。それは入手していないが、収録されているシリーズを二冊所持していて、その巻末広告に掲載を見ているからだ。そのシリーズは昭和二年に刊行された金星堂の「社会科学叢書」で、土方訳はピエル・ラムスの『マルキシズムの謬論』である。これは稀覯本と思われるので、内容紹介だけでもしておいたほうがいいだろう。

 マルキシズムの誤謬を指摘した論はたくさんある。だがその多くはブルヂヨア階級や自由主義者のものが多い。本書はそれと異なり、無政府主義の立場からマルキシズムの金城たる唯物史観の本拠を突き、彼が階級戦上に於てプロレタリヤを売り、フアシズムに行くべき運命を論断した貴重な文献である。

『日本アナキズム運動人名事典』によれば、ラムスはウィーンに生まれ、アメリカに渡ってクロポトキントルストイの影響を受け、アナキストとなり、マルクス主義批判を展開した人物とされる。この翻訳は当時における土方とアナキズムの接近を物語っているといえよう。
日本アナキズム運動人名事典

門野虎三『金星堂のころ』に述べているように、これらの企画は飯田豊二が担っていたはずで、飯田は本連載281でふれた松山敏の退社後、その代わりとして金星堂に入社している。飯田は『日本アナキズム運動人名事典』にも立項されている。

 飯田豊二 いいだとよじ 明治三一・三・一〜(1898〜)小説家。愛知県稲沢町生れ。九歳から二〇歳まで伊賀の寺の小僧、上京して東京工業機械科卒業、市役所水道課に入る。大正一一年金星堂に入り雑誌「世界文学」、「文芸時代」の編集に携わり、別に今東光、村山知義らと「文党」を創刊。プロレタリア小説家と認められた。昭和二年アナキズム系の文芸解放同人となり、さらに解放座、解放劇場などの劇団を組織した。『新興文学全集』第八巻(平凡社)にそのころの作品が収められている。

この他にも金星堂の支配人の立場にあった門野は飯田について、御茶の水駅でビラをまいて神田署につかまり、貰い下げにいったこと、主人の福岡益雄が飯田の左翼的出版企画に好意的だったこと、関東大震災時における家財や様々な品物の運び出しといった活躍などにもふれている。また本連載344でも、金星堂が築地小劇場内に書店を出し、その上演台本の『海賊』を刊行していたことも挙げておいたが、これは飯田が演出家として築地小劇場で公演している事実と関係しているのだろう。

その上演台本シリーズは十二冊に及ぶ「先駆芸術叢書」で、紅野敏郎の『大正期の文芸叢書』に明細の収録があるけれども、編集者に関する言及はない。だが門野の記述から考え、飯田が企画担当したと見なしてかまわないだろう。そして同様にアナキズム系の人脈から、翻訳シリーズ「社会科学叢書」も企画され、その人脈の中にいた土方も翻訳陣に加わることになったと推測できよう。

大正期の文芸叢書

さて私は以前にも門野の『金星堂のころ』をベースにして、「知られざる金星堂」(『古本探究2』所収)を書いているけれど、その後本連載で大阪を含めた特価本業界に関し、かなり長く書いてきたこと、及び近年門野の本が金沢文圃閣から復刻されているので、もう一度金星堂について書いてみる。私見によれば、金星堂は大阪の特価本業界をベースとして、東京での文芸書出版に乗り出したのであり、それを抜きにしては語れないであろう。

古本探究2

金星堂の福岡益雄は明治二十七年京都生まれで、小学校を終え、山中巌松堂に小僧奉公に出て、その後東京浅草の富田文陽堂に入る。これらは京都の著名な古本屋出雲寺系列にあり、巌松堂は貸本なども商い、文陽堂は関西系の取次と赤本の出版を兼ねていた。同じ頃やはり同じ系列の大阪の石塚松雲堂が東京店を出していたが、経営がおもわしくなく、二百円で売りに出されたので、大正七年に福岡はそれを買い、上方屋として独立した。「赤本」をもじって「阪本」と呼ばれる大阪や京都の出版物が八割、東京物は二割で、出版も行なっていたが、浅草的歌本や譜本などの赤本や実用書の造り本、本連載220で取り上げた東亜堂、それこそアルスの前身の阿蘭陀書房の譲受出版であった。

それから福岡は博文館編集部にいた大木惇夫や前田孤泉と準備を進め、二人の上司だった田山花袋も加わり、美土代町から表神保町へと移り、花袋の筆になる看板を掲げ、金星堂を発足させる。処女出版は、当時やはり博文館にいて、『講談雑誌』を編集していた生田蝶介の歌集『宝玉』で、続けて花袋と中沢弘光共著『温泉周遊』、太田三郎の挿絵入り紀行文『武蔵野の草と人』などを刊行し、本格的な文芸書出版への道を歩んでいくのである。

しかし文芸書出版が金星堂の表看板ではあったにしても、ベストセラーの立川文庫を始めとする「阪本」の取次と楽譜や歌本の出版に支えられていた。それに取次としての金星堂の出版物販売力も大きく、初版三千部のうちの千五百部を販売し、売上の三割に及び、残りの千五百部は地方取次に回したという。それは門野も述べているように、福岡が関西出身であることに加え、「浅草畑から出て行った人なので、ありとあらゆる方面に顔が利き、出版物の市(いち)会もうまく立ち回っていた」からだ。つまり大手取次まかせではない自社の流通販売ルートを確立していたのである。

そのような金星堂を背景にして、『文芸時代』が創刊され、「社会科学叢書」や「先駆芸術叢書」なども刊行されていったことになる。金星堂についてはこれからも折を見てふれることにしよう。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら