重松清の『定年ゴジラ』も九八年に出されているので、『〈郊外〉の誕生と死』を刊行してから読んだ作品であった。この一文を書くために再読してみると、初版が出された時からすでに十五年の歳月が流れていることにあらためて驚いてしまう。最初に読んだ時、私はまだ四十代後半で、登場人物たちは六十代だったから、彼らの歳になるのは十年以上先のことだなと思った。ところが小説の中の登場人物たちはそのままで年を取らないけれど、今になってみれば、読者の私はすでに還暦を過ぎてしまい、彼らと同年代になっていることに気づかされる。なおこれはコミック化もされている。
それと同時に『定年ゴジラ』は重松が三十代半ばで書いた連作長編であるけれど、これは揶揄しているのではなく、年齢の割に達者な作品だと実感する。周囲に多くの同世代の定年退職者たちがいる現在を迎え、『定年ゴジラ』におけるそれらの人々のイメージと造型が実にリアルに提出され、巧みに戦後史を散りばめながら物語が進められているとわかる。重松が父親の世代に当る六十代の姿を描き、彼らがどのようにしてニュータウンへとたどりつき、定年を迎えるに至ったかを温かく見守っていることも。
いってみれば、作者の優しい視線でニュータウンとそこに暮らす生活者たちがくるまれ、それぞれの人生が浮かび上がるような仕掛けによって物語も成立している。そのことを象徴するかのように、登場人物たちは「さん」づけで呼ばれている。だからよくできたテレビのホームドラマのような印象も、否応なくつきまとってしまうのであるが。
重松が記した「文庫版のためのあとがき」によれば、「父親の世代を主人公にした物語を、三十代前半の息子が、しかも三人称で書く(中略)無謀な試み」、「父親の世代がマイホームに託した夢のかたちを探る(中略)ある種の不遜な行為」を可能にしたのは、彼が『定年ゴジラ』の舞台である東京郊外のニュータウンくぬぎ台と重なり合う「少々トウのたった住宅地に、二十九歳の頃から暮らしてい」たからだ。しかもそこは移ってきた頃、「オンナコドモの街」だったのが、数年すると定年族の「オッサン」の姿がよく見かけられるようになってきたという。
それゆえに、まず『定年ゴジラ』に描かれたニュータウンの姿を提出しておかなければならないだろう。そのプロフィルは一九七〇年以後の郊外史と住民の生活史の一端を巧みに切り取り、映し出し、この物語の確固たる背景を形成している。
この町の名前は、くぬぎ台という。宅地造成が始まる以前は付近一帯が雑木林だったことに由来する。いまも住宅地を少し離れれば昔ながらの自然が残っている。二十数年かけても、街の規模はほとんど広がらなかった。バブル景気の頃にはくぬぎ台の地価もそれなりに上がり、(中略)もう少し好況がつづいていれば周辺にマンションが建ち並ぶ風景を目にすることができたのだろう(中略)。
くぬぎ台は大手私鉄の沿線開発の一環として造成されたニュータウンである。足掛け二十年近い分譲時期に従って一丁目から五丁目までに分かれている。それぞれ四百戸ずつの分譲で、合計二千戸。
綿密なマーケティングリサーチによる坪単価設定ゆえか、くぬぎ台の住民の暮らしぶりはみごとなほど似通っている。
まず、一家の主(あるじ)の勤務先は、「大」付きかどうかはともかくとしても、それなりに名の通った企業。郊外とはいえ一区画が最低でも六十坪ある土地や建売住宅を買うのだ、やはりある程度の収入は必要である。当然、勤務先は都心になるだろうし、平社員というわけにもいくまい。
家族持ちであることも共通している。同じ金額を出せばもっと便利な場所にマンションが買えるのに、あくまで一戸建にこだわるあたり、子供を緑豊かな街で伸び伸びと育てたいという信条が感じられるし、仕事も大事だが家庭も忘れないマイホーム・パパの姿も想像できるはずだ。(中略)
かくして、くぬぎ台ニュータウンは分譲のたびに、三十代後半から四十代初めのサラリーマンの一家を迎えることになった。いわば小市民の街である。優しいパパの街である。ローンを背負い、終電の時刻にせきたてられながらがんばる夫の街である。
引用にあたって、かなり省略を施すつもりでいたのだが、ニュータウンの様々なファクター、つまりその誕生、歴史、土地と家、住民と家族、サラリーマンとローンなどにわたって間然するところなく取りこみ、実に見事に描き出しているので、省略に至らず、つい長くなってしまった。なかなかこれだけ簡略明解にして手際のいいニュータウンの紹介にはお目にかからないからだ。
そしてさらに九〇年代後半における土地バブルの終焉、及びここに移ってきた「三十代後半から四十代初めのサラリーマン」=「優しいパパ」「がんばる夫」が定年を迎えていること、すなわちニュータウンの土地と住民の黄昏までもが書きこまれ、それがまさに『定年ゴジラ』の物語であることも伝えようとしている。
(文庫版)
主人公の「山崎さん」にしたがって、このくぬぎ台ニュータウンを歩いてみよう。その前に彼を紹介しておけば、高校卒業後四十二年にわたって大手都銀に勤め、六十歳で定年退職を迎え、片道二時間の通勤から解放され、娘たちは家を出ているので、妻と二人の厚生年金での「自由で気ままな人生」を始めたばかりである。そしてあらためてくぬぎ台ニュータウンの現実と向かい合うことになった。二十五年前にビジネスの最前線にいた「山崎さん」にとって、「庭付きの一戸建、澄み切った空気、二階のベランダから眺める富士山、春にはヒバリがさえずり夏には蝉時雨が聞こえる緑豊かな自然」は素晴らしい環境だと思われた。それに街は静かで、都心に比べ、時間の流れもゆるやかで仕事の疲れを癒し、英気を養うには最適のようだった。
だがこの街には何もないことに気づく。スーパーを中心とした駅前商店街はあるにしても、飲み屋もパチンコ屋も映画館もレストランも喫茶店もなく、また図書館もCDショップもない。ささやかな潤いや遊び心、スリルや文化の香りは一切ないのだ。静かな街で老後を過ごしたいと考えたのは若気の至りで、この街がこんなに退屈だとは思いもよらなかったのだ。そしてくぬぎ台の「開発担当者」を恨んだりするようになる。
ここで付け加えておけば、『〈郊外〉の誕生と死』で既述しておいたように、一九五五年に設立された日本住宅公団の大型団地建設とパラレルに始まった郊外化は、東京都市五十キロ圏で見ると、五年毎に人口増加のピークが十キロずつ郊外化していき、七五年から八〇年代にかけてはそれが四十から五十キロ圏にあたっていた。したがって都心まで二時間かかるというくぬぎ台ニュータウンも同じ圏内にあると想定してかまわないだろう。
その間に土地価格は上がり続けるという現象は続き、早い時期に東京都市圏の都心に近い郊外にマイホームをローンで取得した家族は、等しく短期間における資産形成を体験していたのである。上がり続けていく不動産の価値、それは八〇年代まで継続していたし、そのようなマイホームの取得は戦後家族の郊外におけるサクセスストーリーを形成し、この現象をベースにして、一億総中流という意識も生じたと考えられる。しかし九〇年代初頭のバブル経済の崩壊はそうした土地神話をも解体させてしまった。それゆえに『定年ゴジラ』のくぬぎ台ニュータウンに表出しているのは、あからさまではないにしても、バブル経済の崩壊と土地神話の解体過程のニュアンスであり、それが定年後の生活と重ねられているようにも思われる。「開発担当者め、出てきやがれ」との言葉にはそれらのすべてがこめられているとも判断できよう。
ところが「山崎さん」は実際にその「開発担当者」に出会ってしまう。それは「藤田さん」で、その開発は「三十前にスタートして四十過ぎまでかかった大仕事」だったのである。だが「山崎さん」も若気の至りでこの街に移ってきたように、「藤田さん」の開発の仕事もやはり若気の失敗だったと今になって実感される。その上、彼もこの街に住む定年退職者に他ならない。
「山崎さん」と「藤田さん」の二人は散歩仲間となり、この街で唯一の公共施設であるくぬぎ台会館に、後者がつくった街の模型を見にいくことになる。すると会館の玄関前には定年組の先輩三人衆が待っていて、総勢五人でくぬぎ台の模型を見る。それは発泡スチロールを土台とするプラスチックの街並みで、縦横二メートルの幅があり、その上にゲームの駒のようなサイズの家が重なっていた。この模型はかつて開発した武蔵電鉄本社ビルのロビーに飾られていたもので、五人は申し込みの時も抽選の時も、この模型を目にしていたのだ。「あの頃はガラスケースに入れられて、照明もあって、光り輝いていたんですけどね、いまじゃほらこんなに汚れちゃって……」。いうまでもなくその「みすぼらしくなった」模型とは五人の定年退職者と重なり合うのである。
それを前にして彼らは酒盛りを始めるが、模型が肴になるどころか、その「在りし日を偲ぶお通夜のような雰囲気」になり、次から次へとくぬぎ台に対する愚痴や不満が出され始めた。それらは自らの定年退職後の生活に対するものでもあった。しかしサラリーマン時代と異なる昼酒の効き目は覿面で、しかもビール、日本酒、ウィスキーのちゃんぽんだったから、とりわけ「藤田さん」は酔っ払ってしまい、ゴジラの真似をして、ホールの中を動き回る。そして告白する。
ニュータウンプロジェクトがおわると、つくった模型が残るが、打ち上げの時に更地にするように壊してしまう。でもくぬぎ台の模型は自分が住む街、こんな街に住みたいと思い、必死になって手がけた仕事だったので、壊さないで会館に保存しておいた。でも今になって「模型が理想」に過ぎなかったことがわかると。「模型」と「理想」があってくぬぎ台ニュータウンも始まっていた。戦後史において、団地やニュータウンが「理想」のトポスだった時代もあったのだ。しかし目の前にある模型は「二十数年前にはまっさらで、真っ白く、いまはこんなにもくすみ煤けてしまった夢や理想」の残骸ともいうべきものだ。
「藤田さん」ゴジラは足を止め、他の四人を見る。「山崎さん」はいう。「更地に戻しちゃいましょう」。そうして五人はそれぞれゴジラとなる。「山崎さんも街を壊した。四丁目を踏み潰し、雑木林をなぎ倒した。みんなゴジラだ、と思った。俺たちは定年ゴジラだ。ひたすらなにかを築き上げてきた俺たちが、いま初めて、それを壊している」のだ。そして走馬灯のように彼らが生きてきた戦後史が想起されていく。「ゴジラが哭く。街が消えていく。山が崩れた。どこかの家の屋根が踏まれた勢いで弾け飛び、遠くの床に転がっていた」。それを見て五人は涙を流しながら「バンザイ」を叫ぶのだ。『定年ゴジラ』のタイトルの由来と定年退職者たちのカタルシスがここで突出し、この物語の思いがけない山場を現出せしめるのである。
それは最初に読んだ時の印象だったが、「3・11」を経てきた現在、この場面はさらなる連想を強いる。彼らがリアルタイムで見たとされる五四年の本多猪四郎監督の『ゴジラ』は水爆実験に生活環境を破壊され、しかもその放射能を全身に蓄積し、狂暴化し、東京を襲うに至るのだ。つまりゴジラによる東京の破壊は、水爆と放射能に起因し、それは「3・11」の原発事故による福島の被災をも想起させ、この『定年ゴジラ』の場面もまたそれらに重なってしまう。そして郊外の周辺に原発が必ず配置されていたことも。その光景の中から、郊外の終わり、戦後史と原発をめぐるメタファーが浮かび上がってくるような気にもさせられるのだ。そしてこれはイロニカルな悲しきゴジラの物語のようにも読めてしまうのである。