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古本夜話355 ルドルフ・ロッカー、新井松太郎、麻生義

前回 所持する金星堂の「社会科学叢書」二冊について、その書名をあげられなかったが、それらはクロポトキン著、麻生義訳『サンヂカリズムとアナーキズム』とルドルフ・ロッカー著、新井松太郎訳『パンの為の闘争』である。この「叢書」は四六判並製の百ページ余の小冊子といっていいものだが、後者のロッカー(以下この表記とする)にとってはこれが日本における唯一の翻訳書で、戦後に至ってもその出現を見ていない。

このロッカーにあらためて注目したのは『エマ・ゴールドマン自伝』(ぱる出版)を翻訳していた時だった。彼はロンドンにおけるエマの同志的存在で、妻のミリーとともに『同自伝』にも繰り返し登場し、アナキズムのミューズとしてのエマをめぐる連帯と希望の星座ともいうべき関係にあると考えられた。ロッカーは『日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版)にも立項されているので、それを抽出してみる。

エマ・ゴールドマン自伝 上 エマ・ゴールドマン自伝 下  日本アナキズム運動人名事典

彼は一八七三年にドイツに生まれ、当初は社会民主主義者だったが、アナキストとなり、労働組合とサンジカリズムに基づく反軍国主義の立場にあったので、九二年にロンドンに亡命した。そしてクロポトキンたちと交流し、イギリスのユダヤ人のための新聞『労働者の友』の編集者として、労働運動と革命思想と教育のために多くの寄与をもたらし、第一次世界大戦後はドイツのサンジカリズム運動に参加し、アナキズムとの結合につとめ、国際的なサンジカリズム運動でも重要な役割を担ったとされる。ヒトラー政権成立後、今度はアメリカに亡命し、五八年にニューヨーク郊外で亡くなっている。

主著はNationalism and Culture 及びAnarcho‐Syndicalism:Theory and Practice で、 ロンドン時代に関しては回想録The London Years(AK Press,2005)もあり、そこにはエマやクロポトキンとの親密な交流も描かれているが、いずれも未訳のままである。したがって、ロッカーの全貌はまだ日本において明らかになっておらず、昭和二年に出された『パンの為の闘争』が唯一の著書としてあり続けていることになる。

Nationalism and Culture Anarcho‐Syndicalism  The London Years

もちろんそれはロッカーに限ったことではなく、前々回の同じ「叢書」の土方定一訳のラムスにしても、円本の『世界大思想全集』『社会思想全集』に収録された著者たちにしても、そこでしか翻訳紹介されておらず、その明確なプロフィルも定かでない人々がかなりいるのではないかと推測される。

世界大思想全集 『世界大思想全集』

実際にそれは著者たちばかりでなく、訳者や編集者たちも同様で、ロッカーの訳者の新井松太郎も『日本アナキズム運動人名事典』に立項されているものの、ほとんど東京印刷工組合争議担当者、時事新報従業員組合の組織者といったことしかわからず、生没年も不明である。『パンの為の闘争』には『サンデカリズムとアナーキズム』の訳者の麻生義が「ドイツに於ける無政府主義的サンヂカリズムとルドフ・ロツカア」なる解説を寄せ、そのタイトルに沿った一文を収録している。

しかしそれはドイツのアナキズム的サンジカリズムのラフスケッチに終始し、ロッカーのポートレートにまでは及んでいない。ただ新井の「小序」によれば、同書の出版は麻生などの尽力によっているようで、この「叢書」の企画編集自体が麻生たちの手になるものとも考えられる。

これらの著者、訳者、解説者のそれぞれのプロフィルや著作のチャートなどが不明確な状況は、当時の「社会科学叢書」などに象徴される翻訳に等しく付随していたものではないだろうか。それは出版検閲に対する配慮はあるにしても、結果としてすべてが未消化なままで、次々と翻訳されていく状況、つまり円本時代の翻訳環境を物語るものでもあった。

そうした意味において、麻生もまた新井以上にそれを象徴している人物かもしれない。彼も先の『同人名事典』に立項され、次のように紹介されている。明治三十四年大分県に生まれ、七高を経て、東大哲学科在学中に新人会に入り、セツルメント活動に携わる一方で、アナキズム運動に接近する。これが昭和初年で、麻生にとってアナキズム運動に最も積極的で、アナ系労働組合の研究会や地方講演会にも講師として参加し、クロポトキンの翻訳にも携わったとされている。

これは金星堂の『サンデカリズムとアナーキズム』、春陽堂『クロポトキン全集』第八巻所収の『近代科学とアナーキズム』『近代国家論』の翻訳をさしているのだろう。また私も後者については以前に、「春陽堂と『クロポトキン全集』」(『古本探究』所収)を書き、この時代がクロポトキン翻訳の全盛だったことも確認している。

古本探究

しかし麻生のアナキズム運動のパートナーとも見なせる黒色青年連盟前田淳一は経歴不明の謎の多い人物でもあり、戦後は東京銀座の顔役だったとも伝えられている。また麻生のほうも、その後日本哲学や美学の研究に転じ、明治初期の啓蒙学者西周の全集編纂に携わり、『西周哲学著作集』(岩波書店、昭和八年)などを刊行し、日本哲学史研究で先駆的役割を果たしたという。この麻生の立項を担当した大澤正道は彼に関し、「生涯についても知られるところ少なく、忘れられた思想家として再発掘が待たれている」と記している。

確かに麻生の死後、近藤書店から義輝名で出された日本哲学史に対する丸山真男の長文書評「麻生義輝『近世日本哲学史』(昭和十七年)を読む」(『戦中と戦後の間』所収、みすず書房)に目と通すと、麻生の著作がクロポトキンの翻訳やロッカーの解説とはまったく異なる位相で展開されていることを教えられる。それは丸山が「本書は日本の啓蒙哲学の形式を学問的に取扱つた殆ど唯一のモノグラフィーとして永く学界に銘記さるべき労作」と述べていることからもうかがえる。『近世日本哲学史』書肆心水から復刻も出ているようなので、いずれ読んでみたいと思う。

戦中と戦後の間 近世日本哲学史
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