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古本夜話387 平凡社版『菊池寛全集』

菊池寛こそは昭和円本時代をリアルタイムで象徴する作家にして出版者であったといっていいだろう。改造社『現代日本文学全集』春陽堂の『明治大正文学全集』においても、一人で一巻を占め、平凡社からは二回にわたって『菊池寛全集』を出し、編集者としては興文社と文藝春秋社の『小学生全集』の多くを編訳している。その他にも円本時代の様々な全集に一巻で収まったり、共著のかたちで入っているものを挙げれば、同時代の作家の中で、最も多く文学全集の円本に登場しているのではないだろうか。

現代日本文学全集 『現代日本文学全集』 菊池寛全集』

そのかたわらで、菊池は出版者でもあり、大正十二年に『文藝春秋』を創刊し、それを始めとして文藝春秋社は次々に新雑誌を出し、また「文芸講座」や「文芸創作講座」などの円本に類するシリーズも刊行している。

そして菊池の文学者にして出版者という立場から、大正十年に文芸家協会の前身である劇作家協会と小説家協会を結成し、十三年には日本文学振興会を創立し、芥川賞直木賞を設けていくことになる。

そのような菊池の全集がどうして平凡社から刊行されたのかということになるのだが、それは「大衆文学堂」とされた『現代大衆文学全集』のいくつかのヴージョンが構想され、前回の『世界探偵小説全集』『ルパン全集』もそこから枝分かれしたものであり、そのひとつが『菊池寛全集』だったと考えられる。これが皮切りになって、伊藤痴遊、久米正雄白井喬二江戸川乱歩などの個人全集が続いていったと見なせるからだ。

『菊池寛全集』の内容見本に示されたキャッチコピーは「最高の作品は芸術的であり大衆的である!」と銘打たれ、次のように続いていた。

 総て偉大なる芸術は、それが優れたる芸術であると共に、また、一般にもよく味わうことのできるものである。菊池寛氏の作は、その意味に於て、日本文壇随一のものである。優れたる芸術は、階級を超越し、人種芸術を超越する。(中略)まこと、菊池寛氏の作は現在の日本の精髄であると共に、世界的の芸術である。

このような文言にこそ、『菊池寛全集』の刊行が『現代大衆文学全集』のラインにあることを伝えている。後者は時代小説や探偵小説が中心だったために、「芸術的であり大衆的」な菊地を収録できなかったこともあり、それがようやく実現したことにもなる。そして何よりも付け加えておかなければならないのは、『現代大衆文学全集』は昭和二年五月に第一巻『白井喬二集』を刊行し、全三十六巻予定だったが、何度も巻数が追加され、全六十巻となり、完結したのは昭和七年だったので、『菊池寛全集』もそれに寄り添うかたちで刊行されたことだ。

菊池は大正時時代にすでに春陽堂から『菊池寛戯曲全集』全五巻、『菊池寛全集』全四巻を出していたし、単行本の出版は新潮社が多かったことからすれば、春陽堂や新潮社からの全集刊行が当然のようにも思えるが、平凡社がそれを担ったことは強力な編集人脈もさることながら、円本時代の独特な出版力学が強く作用したと見て間違いないだろう。この全十二巻の構成は短編小説二巻、戯曲二巻、長編小説六巻、短編戯曲一巻、評論と随筆一巻で、菊池はこれを全集の定本と見なしたようだ。

確かに「短編小説」とある第一、二巻に目を通すと、彼の出世作、代表作は「無名作家の日記」「忠直卿行状記」「恩讐の彼方」「蘭学事始」「入れ札」などの短編が、つまり菊池文学の「精髄」となっている。そして長編小説には『真珠夫人』『火華』『東京行進曲』『第二の接吻』といった通俗小説も収録され、その時代の新しい風俗や流行も浮かび上がるように構成されている。

真珠夫人 第二の接吻

ただこの全集には解題も解説も添えられていないのだが、その代わりに各巻頭に和田英作、田中良、伊東深水、田辺至、岡田三郎助などのカラー口絵が収録され、それが意外なアクセントになっているように思われる。例えば、第一巻は和田英作による同巻所収「島原心中」の挿絵と見なせる。そこには障子を背景にして、青白い肌を露出させ、部屋から廊下に上半身をさらしている女が描かれている。そして「島原心中」を読んでみて、それが心中で死んでしまった島原の娼婦だとわかる。この短編は心中というよりも、その女の娼婦に追いやられた身体をめぐる物語といってもよく、和田はそれを見抜き、象徴的な女の絵を描いたのではないだろうか。それゆえにその短編と絵は拮抗するような関係になり、この一巻全体に思いがけない華をもたらしている。それがたとえ時代と社会の影の華だったとしても。

この四六判ポプリン装、定価一円の『菊池寛全集』『平凡社六十年史』が伝えるところによれば、菊池に十二巻分六十万部の印税として六万円が支払われているので、これから推測すると各巻五万部が出されていたとわかる。円本時代の後期に入っていたし、まずまずの売れ行きだったはずで、さらに続十巻が昭和八年から刊行されることになる。

菊池はそのような大部の全集の実現を見て、かつて自分が「無名作家の日記」に書きつけた言葉を思い出していただろうか。そこには次のような言葉がしたためられていたのだ。

「流行作家! 新進作家! これはそんな空虚な名称に憧れて居たのが、此頃では少し恥しい。明治大正の文壇で名作(クラシツクス)として残るものが、一体幾何(いくら)あると思ふのだ。」

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