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古本夜話392 鎌田敬止と矢川澄子『野溝七生子というひと』

前回天人社の鎌田敬止については名前を挙げるだけにとどまってしまったが、彼もずっとプロフィルがつかめない人物で、それがようやく判明したのはまったく偶然ながら、矢川澄子『野溝七生子というひと』晶文社)を読んだことによっている。何と鎌田は野溝の共同生活者で、矢川の著書には野溝のみならず、鎌田の写真も掲載され、また巻末には「野溝七生子鎌田敬止付略年譜」まで添えられていたのである。

野溝はすでに矢川の「解説」を付した『野溝七生子作品集』立風書房、昭和五十八年)が編まれ、その特異な夢幻的世界は再発見されるに至っていたが、鎌田はここで初めて編集者、出版者としての軌跡が明らかになったといえよう。ただ間違いもあるし、天人社に関しての言及もないのだが、昭和三年に野溝が『女人芸術』に参加し、この頃鎌田と相識るとの記述を見ると、前回の中本たか子も『女人芸術』に小説を寄せていたことからすれば、中本の『朝の無礼』の編集と出版を通じて、鎌田と野溝が介在していた可能性も考えられる。また二人はともに北原白秋門下で知り合ったとも伝えられている。
女人芸術 (創刊号、講談社復刻) (本の友社復刻)

だがそれらはひとまずおき、主として「略年譜」に記された鎌田の編集者、出版者としての軌跡をたどってみる。彼は明治二十六年千葉県の木更津市に生まれ、旧制三高を経て、大正元年東京帝大医学部に進むが、中退し、同五年創業したばかりの岩波書店に入り、『漱石全集』の編纂に従事する。矢川澄子と同様に『岩波書店七十年』を確認して見ると、「創業以来の入店者で大正7年末までに退店した人」の一人として、鎌田の名前が挙がっている。第一次『漱石全集』の完結はその翌年であるが、残るは書簡集などで、ほぼ目途がついたところで退店したとも見なせるだろう。

そして次にアルスに移る。それは鎌田が北原白秋に師事していたことによっているはずだ。アルスはこれも本連載335などで既述してきたように、白秋の弟の北原鉄雄によって、大正六年に前身の阿蘭陀書房を引き継ぐかたちで創業されている。同十年にアルスから刊行された白秋の歌集『雀の卵』には「大序」という文字通り長い序が置かれ、この一巻の成立事情が語られている。それによれば、『雀の卵』の編纂は六年の冬から始まり、十年までかかり、その間の九年に鎌田が反故の整理や分類や清書の手伝いに入り、「鎌田君が傍で気勢を添えてくれたお蔭」で、完成に至ったことになる。白秋の記述から考えると、鎌田は岩波書店を辞め、それほど間を置かず、アルスに入社していたのであろう。

それから大正十三年に白秋は釈迢空、木下利玄などと短歌雑誌『日光』(日光社)、十五年には詩雑誌『近代風景』(アルス)をそれぞれ創刊しているので、鎌田もそれらに寄り添い、前者の場合は同人に名前を連ねてもいる。その後これは「略年譜」には見えていないし、経緯も不明だが、前回ふれたように天人社に移り、『現代暴露文学選集』などの編集に携わっている。

また「略年譜」には昭和五年頃「平凡社の地名辞典編纂に協力」とあるけれど、平凡社は戦後に『世界地名事典』を出しているが、戦前にはその種の辞典を刊行していない。だからこれは間違いで、前回記したように『大百科事典』の編集者の一人として、平凡社に入ったことになる。ここまでが鎌田の編集者史である。

昭和十四年になって、鎌田は八雲書林を創立し、出版者の道を歩み始め、それまでの編集人脈を生かし、白秋を始めとする歌集や文芸書を刊行する。ところがこれも本連載129などでも書いておいたように、戦時下における出版社の企業整備によって、同十九年に八雲書林は武蔵野書房、楽浪書院、書物展望社などとともに青磁社へと統合され、その編集長を務めることになった。

そして戦後を迎え、昭和二十四年頃に白玉書房を設立し、ようやく鎌田は私たちが知っている現代歌人の歌集や歌論、詩論集の出版者となっていくのである。矢川澄子も『野溝七生子というひと』の中で、鎌田には二、三度しかお目にかかっていなかったけれど、彼について「近代短歌史のかくれた功労者」、白玉書房に関しては「戦後の短歌史をいろどる幾多の名著が送り出されたところ」、「歌集の専門出版社白玉書房の看板はゆるぎなく、この世界ではほとんど独走を誇っていた」とのオマージュを捧げている。

それに加え、「略年譜」には「白玉書房主要刊行書目」も付せられ、その「幾多の名著」が記載され、そのラインナップから、鎌田と白玉書房が戦後短歌史において果たした、他の出版社に比すべきもない偉大な貢献を知らされるのである。

それらを私の好みによって挙げてみよう。岡井隆『土地よ、痛みを負え』、岸上大作『意志表示』、寺山修司『血と麦』『田園に死す』、葛原妙子『葡萄木立』『朱霊』、前登志夫『子午線の繭』、塚本邦雄『緑色研究』『感幻楽』などで、これらがいずれもかつて古本屋で独特のアウラを放ち、高い古書価で売られていたことを思い出す。しかしそれも半世紀近く前の光景になってしまった。
[f:id:OdaMitsuo:20140320204715j:image:h120]緑色研究 『緑色研究』

だがここで下世話なことは承知でいってみると、白玉書房の生産はともかく、流通や販売はどうなっていたのだろうか。白玉書房は実質的に鎌田の手を離れた昭和四十年代半ばに神保町へ移っているが、それまでは野溝と彼の「共同の棲家」である大田区東嶺町で営まれてきた。つまり普通の民家で出版活動が可能だったことは、白玉書房が自費出版をメインとする歌集出版社であり、取次や書店もほとんど必要としなかったことを物語っているのだろうか。

しかも鎌田の昭和五十五年における八十七歳での死は自殺となっていて、矢川は彼の死に際し、短歌雑誌のいずれにも追悼文のひとつすらも掲げられてなかったのではないかと書いている。それは長生きしたこともあるが、鎌田が歌壇ばかりか、所謂出版業界からも孤立し、黙々と「幾多の名著」を刊行してきたことによっているのかもしれない。

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