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古本夜話398 有隣堂と日高有倫堂

前回の磯田光一『思想としての東京』に間違いがあるので、それを訂正するとともに、そのことに関連して、間奏的一編を挿入しておきたい。

思想としての東京

磯田は田山花袋『東京の三十年』岩波文庫)への言及の前置きとして、「明治十四年二月、群馬県から上京してきた十歳の田山花袋は、京橋の書店・日高有倫堂の丁稚になった」と書いている。しかしこの日高有倫堂は間違いで、有隣堂である。この有隣堂には拙稿「書店の小僧としての田山花袋」(『書店の近代』 所収)でもふれておいたが、明治七年に旧幕臣の穴山篤太郎によって創業され、農業書や養蚕書などの殖産興業書を出版していた。その住所は京橋南伝馬町にあった。

東京の三十年 書店の近代

それに対し、日高有倫堂は日高藤兵衛が営む出版社で、本郷にあり、小説、宗教書、翻訳書などを刊行し、明治後期にはそれなりに知られた版元だったと思われる。創業は明治三十八年とである伝えられているが、有隣堂と同様に廃業年は不明である。

つまり磯田はおそらく版元名が同音ゆえに、有隣堂を日高有倫堂と間違えてしまったことになる。この混同は磯田ばかりでなく、『日本近代文学大事典』や「綱島梁川集」が収録された筑摩書房『明治文学全集』46でも同様で、明治三十八年に日高有倫堂から刊行の『梁川文集』 が、前者は日高有隣堂、後者も有隣堂と誤記されている。

日本近代文学大事典 明治文学全集 46

これらも磯田と同様の混同であるが、それがややこしいことに、まったく何の関係も見出せないのだけれど、著名な書店として横浜の有隣堂があることも作用しているのかもしれない。ただ文芸評論としてはわずかな瑕瑾だとしても、『思想としての東京』は近代東京論、近代文学史論のカノンとして読み継がれていくであろうことも考え、ここでそれをはっきり指摘しておくべきだと判断したのである。

またそれは殖産興業書の有隣堂のことはともかく、日高有倫堂に関してはずっと気にかけていたにもかかわらず、はっきりしたプロフィルがつかめていないことにもよっている。私は本連載192などでも既述してきたように、ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」の訳者でもあり、ゾラと「叢書」の成立に大きな影響を与えたとされるルナンの『耶蘇伝』がこれも綱島梁川訳、安倍能成訳補によって、明治四十一年にこの日高有倫堂から刊行されていたからだ。安倍の訳補は三十九年に梁川が亡くなったためである。

管見の限り、その日高有倫堂についてのまとまった記述は次のような小川菊松の『出版興亡五十年』における証言だけであろう。
出版興亡五十年

▲日高有倫堂=本郷春木町にあつた。日高氏は私が取次店創業当時、至誠堂から突つぱなされた私に非常に同情して、新刊の卸しを一手に任してくれられたりした御仁である。出版物には大したものはなく、田口掬汀氏の小説を出版したり、宗教関係のものを出版した位で、折角綱島梁川氏の「梁川文集」を出版しながら、「病間録」以後の著作は金尾文淵堂にさらわれてしまつたのは気の毒であつた。

少しばかり小川の言を補足解釈すれば、日高は情の厚い人だったし、出版物もそれなりに色々と出し、宗教物で少し当てたが、綱島の芸術評論集は出したものの、肝心の売れ筋である病床にあっての宗教随想集などは他社にとられてしまい、出版運に恵まれなかったということになろう。察するに、綱島の本領は美文にして思索的な宗教随想にあり、それに病気と見神論が加わることで広く人気を集め、それらの著書はよく売れ、多くの反響を呼んだことになる。だがその日高有倫堂はその恩恵に浴することがかなわなかったのだろう。

それと同時代の明治四十一年に日高有倫堂から出された岩野泡鳴の詩集『闇の盃盤』 が手元にある。もちろん初版ではなく、ほるぷ出版の「名著復刻詩歌文学館」の一冊だが、この巻末には十五ページに及ぶ「有倫堂出版書目」が付され、小説、宗教書など七十余点が掲載されている。しかし『梁川文集』も四版の表記があることから考えれば、それほどのヒットではなく、その一方で、新刊、近刊書目が十二点を数え、これは資金繰りが苦しいことを示しているように思われる。

それとこれもはっきりわからないが、岩野泡鳴との関係で、この彼の第四詩集の他にも第二、第三詩集『夕潮』(明治三十七年)と『悲恋悲歌』(同三十八年)も出されていて、売れなかったことを告げるように、この二冊の詩集も「刊行書目」に掲載されている。

このように「刊行書目」を見てみると、小川の日高有倫堂に関する証言に納得できる気がする。その後しばらくしてからだと思うが、実際にルナンの『耶蘇伝』が特価本業界の譲受出版となっているのを見ている。おそらくこの時代は大正の新しい出版へと向かっていく端境期であり、そこで日高有倫堂は退場を迫られていたのかもしれないし、「刊行書目」こそがそれを物語るものとしてあったように思われてならない。

なお最後に付け加えておけば、これは偶然であろうが、『出版興亡五十年』の日高有倫堂の隣に有隣堂も立項されていて、それが京橋南伝馬町の洋館式店舗で、農業関係の図書を専門とする出版界に珍しい存在だったとの記述が見える。ただし有隣堂の穴山とは取引も交際もなかったので、小川の記憶に残っていないとされている。そして『出版興亡五十年』のこの章が、「消滅した著名書店」と題されていることを、あらためて確認した次第だ。

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