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混住社会論66 ジャン・ヴォートラン『グルーム』(文春文庫、二〇〇二年)

グルーム



堀江敏幸『子午線を求めて』思潮社)のセリーヌと郊外とロマン・ノワールに関する論考で指摘しているように、セリーヌ『夜の果ての旅』を始めとする作品の影響は、ロマン・ノワールの分野に大いなる陰影を落としていく。一九七〇年代末から新しい推理小説としての「ネオ・ポラール」ブームが招来するのだが、それは六八年の五月革命を起点としていて、その中心人物J・P・マンシェットやA・D・Gの作品にも明らかで、またジャン・ヴォートランなどの「郊外型ロマン・ノワール」にも継承されていった。
子午線を求めて夜の果ての旅

「ネオ・ポラール」という言葉を教えられたのは御多分にもれず、一九九一年に「文庫クセジュ」の一冊として刊行されたジャン=ポール=シュヴェイアウゼールの『ロマン・ノワール』(平岡敦訳、白水社)においてだった。同書には「フランスのハードボイルド」というサブタイトルが付され、それに触発されたこと、また九七年に学習研究社からマンシェットの『殺戮の天使』野崎歓訳)、『殺しの挽歌』(平岡敦訳)、『眠りなき狙撃者』中条省平訳)が立て続けに翻訳出版されたこともあって、私も『地下組織ナーダ』(岡村孝一訳、ハヤカワ・ミステリ)に関する二編のマンシェット論「五月革命とロマン・ノワール」「ナーダをめぐって」(『文庫・新書の海を泳ぐ』所収)を書いている。

殺戮の天使 殺しの挽歌 眠りなき狙撃者  文庫・新書の海を泳ぐ

同様にあらためてジャン・ヴォートランの名前を知ったのも『ロマン・ノワール』で、映画『さらば友よ』 の監督や脚本のジャン・エルマンのペンネームであり、ヴォートランはバルザック『ゴリオ爺さん』 などに出てくる「人間喜劇」の登場人物の一人からとられているとわかった。ヴォートランの「必読」作品として、『ビリー・ズ・キック』(七四年)、『ブラッディー・メアリー』(七九年)、『グルーム』(八〇年)が挙げられていたが、それらは九五年に草思社「ロマン・ノワール」シリーズ『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』『鏡の中のブラッディ・マリー』、〇二年に『グルーム』(文春文庫)として、すべて高野優訳で出された。そのことによって、「ネオ・ポラール」としての「郊外型ロマン・ノワール」の一端が明らかになったといえよう。

さらば友よ パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない 鏡の中のブラッディ・マリー

これらのヴォートランの三作はパリ郊外の団地を背景とし、作家名がバルザックに起因することもあってか、何人もの登場人物再現法も踏襲されている。また『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』『鏡の中のブラッディ・マリー』は七二年に刊行されたドゥルーズガタリ『アンチ・オイディプス』(市倉宏祐訳、河出書房新社)の影響も感じられる。だがここではそれらの総集編ともみなせる『グルーム』も取り上げてみる。というのは、『グルーム』エピグラフブレヒトの一文が置かれ、そこに世界の「すべては夜の闇が降りたということを示しているのではないか」との一説がある。それはまさにセリーヌのの『夜の果ての旅』をも想起させる。

アンチ・オイディプス

また前回、郊外のニュアンスを内包する作家フランソワ・ボンが、高校で文章教室の講座を開いたことに関する堀江の『郊外へ』における言及を紹介したが、『グルーム』の主人公ハイムも郊外の中学の美術教師として設定され、今回の赴任先は三校目で、前任校はシャンティイの中学となっている。これは原文を確かめていないのだが、「シャンティイ」がジャンティイの誤植であれば、さらにリアリティが高まる。ジャンティイとはあの『パリ郊外』の写真家ドアノーが生まれたところであり、象徴的な郊外とも考えられるからだ。今度の中学もまた団地の街に存在し、「コンクリートの団地でできたその町は、あらゆることに無関心で、ただ暴力と、暗く愚かな出来事に支配されている」。ハイムの家はその数キロ先の村の頂上にあった。
郊外へパリ郊外

 (……)丘の上にあって、その村は平野を見おろしていた。一面の麦畑。ビート畑。また麦畑。ビート畑。それがはるか向こうの団地の町まで続いている。
 だが、ビートや小麦の収穫量はすでに減ってきている。肥料はたっぷりまかれているのに土地を耕す者はおらず、休耕地にはキクイモが密生している状態だからだ。畑は年々減ってきているのだ。
 そうして、その向こうには、年度と石灰質の土地に四角い建物がはえてきている。根こそぎ抜かれた果樹園のあとに……。まるでひとつの病気のように……。建物にあけられた幾千もの目が貪欲な眼差しで平野を見つめているかのように見える。もうじき、そちらにも進出しようと……。四角い建物で平野を埋めつくそうと……。
 車が丘の頂上に止まったあと、ハイムはその光景から目を離すことができなかった。
 「この淫乱の大女め」町が人であるかのように罵る。

団地に象徴される郊外の町の出現のプロセスが語られている。それはこの連載で見てきたようにどの国でも共通していて、産業構造の転換、都市への人口集中、都市周辺の農村のスプロール開発、郊外の誕生という流れをたどっている。とりわけフランスの場合は移民の問題が大きな要因だったことも。その新しいトポスとしての郊外や団地に関する多くの物語が提出されてきたが、それは移り住んできた側の視点から組み立てられたものが大半を占めていた。それは「郊外型ロマン・ノワール」も例外ではなかったし、ヴォートランの『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』『鏡の中のブラッディ・マリー』も同様だった。

ところがこの『グルーム』に至って、主人公は先住者たるハイムにすえられ、主要な舞台は彼が住む丘の上の家と妄想のパラレルワールドに他ならない「アルゴンキン・ホテル」であり、団地のある町はハイムや家や農耕の大地を侵蝕する「淫乱の大女」のように見なされている。前二作も登場人物たちの妄想に基づく反抗と暴力が物語のコードとなっていたが、『グルーム』はあくまで郊外と団地化によってもたらされた先住者固有の倒錯的イメージによって成立しているのだ。この作品の始まりにあって、ハイムが身体障害者で、三校目の中学でも受け入れられないという設定は、先住者と新しい街の関係を象徴していよう。

いずれにしても、ヴォートランが前提としているのは、パリ郊外のHLMが政治家たちによって意図的に建設された「一種のゲットー」で、閉塞されたシステムそのものに他ならないという認識である。それゆえに『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』の中で、立退きを拒否する老人に「最後まで抵抗するつもりだ。土を守る最後の男になるのだ。放っておくと団地はどこまでも上に伸び、太陽を食らう」と叫ばせ、実際のレジスタンスとへと向かわせていたが、『グルーム』のハイムの場合、もはやそのような抵抗ではなく、ひたすら妄想の世界へと引きこもることによって、現実が狂気の世界に侵蝕されていく様相を描いている。

その触媒となるのはエコール・ド・パリの一人に挙げられるシャイム・スーチンとその作品である。『グルーム』の主人公ハイムChaïm のフランス語読みによっていることは明らかだし、ヴォートランは郊外にモンパルナスの画家を召喚し、『グルーム』を紡ぎ出したと考えていいだろう。

『フォーヴィズムとエコール・ド・パリ』(『世界美術大全集』25、小学館)などによってスーチンをラフスケッチしてみる。彼はユダヤ人として、一八九四年にリトアニアユダヤ人ゲットーの村に生まれ、差別と貧困の中で育ち、美術学校を経て、一九一三年にパリに出てきた。そしてモディリアニやシャガールたちと知り合い、エコール・ド・パリの聖地モンパルナスの共同アパート兼アトリエの「ラ・リューシュ(蜂の巣)」に住み、激しい赤に象徴される鮮烈な色彩とデフォルメによる作風で死んだ動物、風景、人物を描いた。そうした中で、アメリカのコレクターとして著名なバーンズが百点を購入し、スーチンは一躍名を知られることになるが、第二次世界大戦のドイツ占領下のパリで胃潰瘍を悪化させ、四三年八月に死んだ。
フォーヴィズムとエコール・ド・パリ

『グルーム』においては、このタイトルそのものが英語に基づくホテルなどの若い「ボーイ」を意味するように、スーチンの一連の「ボーイ」シリーズの「フロア・ボーイ」「ボーイの肖像」「マキシムのボーイ」の他に、「ケーキつくりの職人」「聖歌隊の少年」が挙げられている。また「アルゴンキン・ホテル」の宿泊客だったアメリカ人の元画商ピングは、スーチンの最初の個展を開いた人物とされ、ホテルの十二歳の客室係である「ぼく」が「フロア・ボーイ」にそっくりだという。これはパリのオランジュリー美術館が所蔵しているLe garçon d’étage で、前出の『全集』でも見ることができる。確かに赤が鮮烈だ。

さらにピングは「グルーム」の「僕が時代のシンボル」で、スーチンの運命と重なるといい、次のように語るのだ。「……スーチンはあののんびりした時代のなかで〈不安〉と〈絶望〉と体現していた。ヨーロッパはやがて、戦争と混乱の時代に突入していく。弱者が虐げられる時代に……。そのなかでスーチンは〈恐怖〉の観念を代表していたのだ」と。

これは繰り返しになってしまうけど、「ぼく」=十二歳のハイムとピングは「アルゴンキン・ホテル」と同じく、現実世界に住むハイムの妄想の産物で、それはスーチンが死んだドイツ占領下のパリとも重なり合う。戦時下でもないのに、どうしてそのような「不安」や「絶望」や「恐怖」がもたらされたのか。核や癌の恐怖、消費社会に乗り遅れることに対する恐怖の中で、郊外の生活者は自分たちの世界を守り、それにしがみつこうとし、他人のことには無関心で、ただ生き延びることに夢中になっている。

その一方で、拒絶され、排斥され、貶められ、虐殺された人々が絶えず生まれている。ピングはもうその世界で、「ハイム坊主。おまえは殺せ! ショックを与えろ! 真実の側にいるのはおまえなんだ。(中略)横並びはいらない。みんなと同じであればいいというくそったれた精神に否(ノン)を突きつけるんだ」という。

その妄想の世界の言説にあおられ、現実の世界の輪郭も歪みはじめ、ハイムも犯罪へと向かい始め、それに向かって新たな登場人物が出現し、事件が引き起こされていく。そうした意味において、船戸与一のハードボイルド小説定義をもじれば、優れたロマン・ノワールとは郊外と混住社会の断層を完膚なきまでに切り裂いて見せた作品ということになるだろう。なおこれはまったくの私見だが、ヴォートランの『グルーム』はホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』(内田吉彦訳、集英社)の影響下に書かれたようにも思える。
夜のみだらな鳥

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」65  セリーヌ『夜の果ての旅』(原書一九三二年、中央公論社、一九六四年)
「混住社会論」64  ロベール・ドアノー『パリ郊外』(原書一九四九年、リブロポート、一九九二年)
「混住社会論」63  堀江敏幸『郊外へ』(白水社、一九九五年)
「混住社会論」62  林瑞枝『フランスの異邦人』(中公新書、一九八四年)とマチュー・カソヴィッツ『憎しみ』(コロンビア、一九九五年)
「混住社会論」61  カーティス・ハンソン『8Mile』(ユニバーサル、二〇〇二年)と「デトロイトから見える日本の未来」(『WEDGE』、二〇一三年一二月号)
「混住社会論」60  G・K・チェスタトン『木曜の男』(原書一九〇八年、東京創元社一九六〇年)
「混住社会論」59  エベネザー・ハワード『明日の田園都市』(原書一九〇二年、鹿島出版会一九六八年)
「混住社会論」58  『日本ショッピングセンターハンドブック』と『イオンスタディ』(いずれも商業界、二〇〇八、〇九年)
「混住社会論」57  ビクター・グルーエン『ショッピングセンター計画』『都市の生と死』(いずれも商業界、一九六九、七一年)
「混住社会論」56  嶽本野ばら『下妻物語』(小学館、二〇〇二年)
「混住社会論」55  佐伯一麦『鉄塔家族』(日本経済新聞社、二〇〇四年)
「混住社会論」54  長嶋有『猛スピードで母は』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」53  角田光代『空中庭園』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」52  宮沢章夫『不在』(文藝春秋、二〇〇五年)
「混住社会論」51  吉本由美『コンビニエンス・ストア』(新潮社、一九九一年)と池永陽『コンビニ・ララバイ』(集英社、二〇〇二年)
「混住社会論」50  渡辺玄英『海の上のコンビニ』(思潮社、二〇〇〇年)
「混住社会論」49  いがらしみきお『Sink』(竹書房、二〇〇二年)
「混住社会論」48  佐瀬稔『金属バット殺人事件』(草思社、一九八四年)と藤原新也『東京漂流』(情報センター出版局、一九八三年)
「混住社会論」47  山本直樹『ありがとう』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」46  重松清『定年ゴジラ』(講談社、一九九八年)
「混住社会論」45  ジョン・ファウルズ『コレクター』(白水社、一九六六年)
「混住社会論」44  花村萬月『鬱』(双葉社、一九九七年)
「混住社会論」43  鈴木光司『リング』(角川書店、一九九一年)
「混住社会論」42  筒井康隆『美藝公』(文藝春秋、一九八一年)
「混住社会論」41  エド・サンダース『ファミリー』(草思社、一九七四年)
「混住社会論」40  フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(平凡社、二〇一三年)
「混住社会論」39  都築響一『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、一九九七年)
「混住社会論」38  小林のりお と ビル・オウエンズ
「混住社会論」37  リースマンの加藤秀俊 改訂訳『孤独な群衆』(みすず書房、二〇一三年)
「混住社会論」36  大場正明『サバービアの憂鬱』(東京書籍、一九九三年)
「混住社会論」35  ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(C-Cヴィクター、一九七八年)
「混住社会論」34  エドワード・ホッパーとエリック・フィッシュル
「混住社会論」33  デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』(松竹、一九八六年)
「混住社会論」32  黒沢清『地獄の警備員』(JVD、一九九二年)
「混住社会論」31  青山真治『ユリイカ EUREKA』(JWORKS、角川書店、二〇〇〇年)
「混住社会論」30  三池崇史『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(大映、一九九五年)
「混住社会論」29  篠田節子『ゴサインタン・神の座』(双葉社、一九九六年)
「混住社会論」28  馳星周『不夜城』(角川書店、一九九六年)
「混住社会論」27  大沢在昌『毒猿』(光文社カッパノベルス、一九九一年)
「混住社会論」26  内山安雄『ナンミン・ロード』(講談社、一九八九年)
「混住社会論」25  笹倉明『東京難民事件』(三省堂、一九八三年)と『遠い国からの殺人者』(文藝春秋、八九年)
「混住社会論」24  船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1