堀江敏幸も『子午線を求めて』(思潮社)のセリーヌと郊外とロマン・ノワールに関する論考で指摘しているように、セリーヌの『夜の果ての旅』を始めとする作品の影響は、ロマン・ノワールの分野に大いなる陰影を落としていく。一九七〇年代末から新しい推理小説としての「ネオ・ポラール」ブームが招来するのだが、それは六八年の五月革命を起点としていて、その中心人物J・P・マンシェットやA・D・Gの作品にも明らかで、またジャン・ヴォートランなどの「郊外型ロマン・ノワール」にも継承されていった。
「ネオ・ポラール」という言葉を教えられたのは御多分にもれず、一九九一年に「文庫クセジュ」の一冊として刊行されたジャン=ポール=シュヴェイアウゼールの『ロマン・ノワール』(平岡敦訳、白水社)においてだった。同書には「フランスのハードボイルド」というサブタイトルが付され、それに触発されたこと、また九七年に学習研究社からマンシェットの『殺戮の天使』(野崎歓訳)、『殺しの挽歌』(平岡敦訳)、『眠りなき狙撃者』(中条省平訳)が立て続けに翻訳出版されたこともあって、私も『地下組織ナーダ』(岡村孝一訳、ハヤカワ・ミステリ)に関する二編のマンシェット論「五月革命とロマン・ノワール」「ナーダをめぐって」(『文庫・新書の海を泳ぐ』所収)を書いている。
同様にあらためてジャン・ヴォートランの名前を知ったのも『ロマン・ノワール』で、映画『さらば友よ』 の監督や脚本のジャン・エルマンのペンネームであり、ヴォートランはバルザックの『ゴリオ爺さん』 などに出てくる「人間喜劇」の登場人物の一人からとられているとわかった。ヴォートランの「必読」作品として、『ビリー・ズ・キック』(七四年)、『ブラッディー・メアリー』(七九年)、『グルーム』(八〇年)が挙げられていたが、それらは九五年に草思社「ロマン・ノワール」シリーズ『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』『鏡の中のブラッディ・マリー』、〇二年に『グルーム』(文春文庫)として、すべて高野優訳で出された。そのことによって、「ネオ・ポラール」としての「郊外型ロマン・ノワール」の一端が明らかになったといえよう。
これらのヴォートランの三作はパリ郊外の団地を背景とし、作家名がバルザックに起因することもあってか、何人もの登場人物再現法も踏襲されている。また『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』や『鏡の中のブラッディ・マリー』は七二年に刊行されたドゥルーズ/ ガタリの『アンチ・オイディプス』(市倉宏祐訳、河出書房新社)の影響も感じられる。だがここではそれらの総集編ともみなせる『グルーム』も取り上げてみる。というのは、『グルーム』のエピグラフにブレヒトの一文が置かれ、そこに世界の「すべては夜の闇が降りたということを示しているのではないか」との一説がある。それはまさにセリーヌのの『夜の果ての旅』をも想起させる。
また前回、郊外のニュアンスを内包する作家フランソワ・ボンが、高校で文章教室の講座を開いたことに関する堀江の『郊外へ』における言及を紹介したが、『グルーム』の主人公ハイムも郊外の中学の美術教師として設定され、今回の赴任先は三校目で、前任校はシャンティイの中学となっている。これは原文を確かめていないのだが、「シャンティイ」がジャンティイの誤植であれば、さらにリアリティが高まる。ジャンティイとはあの『パリ郊外』の写真家ドアノーが生まれたところであり、象徴的な郊外とも考えられるからだ。今度の中学もまた団地の街に存在し、「コンクリートの団地でできたその町は、あらゆることに無関心で、ただ暴力と、暗く愚かな出来事に支配されている」。ハイムの家はその数キロ先の村の頂上にあった。
(……)丘の上にあって、その村は平野を見おろしていた。一面の麦畑。ビート畑。また麦畑。ビート畑。それがはるか向こうの団地の町まで続いている。
だが、ビートや小麦の収穫量はすでに減ってきている。肥料はたっぷりまかれているのに土地を耕す者はおらず、休耕地にはキクイモが密生している状態だからだ。畑は年々減ってきているのだ。
そうして、その向こうには、年度と石灰質の土地に四角い建物がはえてきている。根こそぎ抜かれた果樹園のあとに……。まるでひとつの病気のように……。建物にあけられた幾千もの目が貪欲な眼差しで平野を見つめているかのように見える。もうじき、そちらにも進出しようと……。四角い建物で平野を埋めつくそうと……。
車が丘の頂上に止まったあと、ハイムはその光景から目を離すことができなかった。
「この淫乱の大女め」町が人であるかのように罵る。
団地に象徴される郊外の町の出現のプロセスが語られている。それはこの連載で見てきたようにどの国でも共通していて、産業構造の転換、都市への人口集中、都市周辺の農村のスプロール開発、郊外の誕生という流れをたどっている。とりわけフランスの場合は移民の問題が大きな要因だったことも。その新しいトポスとしての郊外や団地に関する多くの物語が提出されてきたが、それは移り住んできた側の視点から組み立てられたものが大半を占めていた。それは「郊外型ロマン・ノワール」も例外ではなかったし、ヴォートランの『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』や『鏡の中のブラッディ・マリー』も同様だった。
ところがこの『グルーム』に至って、主人公は先住者たるハイムにすえられ、主要な舞台は彼が住む丘の上の家と妄想のパラレルワールドに他ならない「アルゴンキン・ホテル」であり、団地のある町はハイムや家や農耕の大地を侵蝕する「淫乱の大女」のように見なされている。前二作も登場人物たちの妄想に基づく反抗と暴力が物語のコードとなっていたが、『グルーム』はあくまで郊外と団地化によってもたらされた先住者固有の倒錯的イメージによって成立しているのだ。この作品の始まりにあって、ハイムが身体障害者で、三校目の中学でも受け入れられないという設定は、先住者と新しい街の関係を象徴していよう。
いずれにしても、ヴォートランが前提としているのは、パリ郊外のHLMが政治家たちによって意図的に建設された「一種のゲットー」で、閉塞されたシステムそのものに他ならないという認識である。それゆえに『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』の中で、立退きを拒否する老人に「最後まで抵抗するつもりだ。土を守る最後の男になるのだ。放っておくと団地はどこまでも上に伸び、太陽を食らう」と叫ばせ、実際のレジスタンスとへと向かわせていたが、『グルーム』のハイムの場合、もはやそのような抵抗ではなく、ひたすら妄想の世界へと引きこもることによって、現実が狂気の世界に侵蝕されていく様相を描いている。
その触媒となるのはエコール・ド・パリの一人に挙げられるシャイム・スーチンとその作品である。『グルーム』の主人公ハイムChaïm のフランス語読みによっていることは明らかだし、ヴォートランは郊外にモンパルナスの画家を召喚し、『グルーム』を紡ぎ出したと考えていいだろう。
『フォーヴィズムとエコール・ド・パリ』(『世界美術大全集』25、小学館)などによってスーチンをラフスケッチしてみる。彼はユダヤ人として、一八九四年にリトアニアのユダヤ人ゲットーの村に生まれ、差別と貧困の中で育ち、美術学校を経て、一九一三年にパリに出てきた。そしてモディリアニやシャガールたちと知り合い、エコール・ド・パリの聖地モンパルナスの共同アパート兼アトリエの「ラ・リューシュ(蜂の巣)」に住み、激しい赤に象徴される鮮烈な色彩とデフォルメによる作風で死んだ動物、風景、人物を描いた。そうした中で、アメリカのコレクターとして著名なバーンズが百点を購入し、スーチンは一躍名を知られることになるが、第二次世界大戦のドイツ占領下のパリで胃潰瘍を悪化させ、四三年八月に死んだ。
『グルーム』においては、このタイトルそのものが英語に基づくホテルなどの若い「ボーイ」を意味するように、スーチンの一連の「ボーイ」シリーズの「フロア・ボーイ」「ボーイの肖像」「マキシムのボーイ」の他に、「ケーキつくりの職人」「聖歌隊の少年」が挙げられている。また「アルゴンキン・ホテル」の宿泊客だったアメリカ人の元画商ピングは、スーチンの最初の個展を開いた人物とされ、ホテルの十二歳の客室係である「ぼく」が「フロア・ボーイ」にそっくりだという。これはパリのオランジュリー美術館が所蔵しているLe garçon d’étage で、前出の『全集』でも見ることができる。確かに赤が鮮烈だ。
さらにピングは「グルーム」の「僕が時代のシンボル」で、スーチンの運命と重なるといい、次のように語るのだ。「……スーチンはあののんびりした時代のなかで〈不安〉と〈絶望〉と体現していた。ヨーロッパはやがて、戦争と混乱の時代に突入していく。弱者が虐げられる時代に……。そのなかでスーチンは〈恐怖〉の観念を代表していたのだ」と。
これは繰り返しになってしまうけど、「ぼく」=十二歳のハイムとピングは「アルゴンキン・ホテル」と同じく、現実世界に住むハイムの妄想の産物で、それはスーチンが死んだドイツ占領下のパリとも重なり合う。戦時下でもないのに、どうしてそのような「不安」や「絶望」や「恐怖」がもたらされたのか。核や癌の恐怖、消費社会に乗り遅れることに対する恐怖の中で、郊外の生活者は自分たちの世界を守り、それにしがみつこうとし、他人のことには無関心で、ただ生き延びることに夢中になっている。
その一方で、拒絶され、排斥され、貶められ、虐殺された人々が絶えず生まれている。ピングはもうその世界で、「ハイム坊主。おまえは殺せ! ショックを与えろ! 真実の側にいるのはおまえなんだ。(中略)横並びはいらない。みんなと同じであればいいというくそったれた精神に否(ノン)を突きつけるんだ」という。
その妄想の世界の言説にあおられ、現実の世界の輪郭も歪みはじめ、ハイムも犯罪へと向かい始め、それに向かって新たな登場人物が出現し、事件が引き起こされていく。そうした意味において、船戸与一のハードボイルド小説定義をもじれば、優れたロマン・ノワールとは郊外と混住社会の断層を完膚なきまでに切り裂いて見せた作品ということになるだろう。なおこれはまったくの私見だが、ヴォートランの『グルーム』はホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』(内田吉彦訳、集英社)の影響下に書かれたようにも思える。