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古本夜話400 今西吉雄『今昔流行唄物語』と『少女の友』

本連載で断続的に西條八十、野口雨情、福田正夫などによる流行歌の系譜をたどってきたが、彼らが詩人であるという出自を考えれば、歌謡曲自体が近代文学のひとつのバリエーションと見ていいのかもしれない。しかもメディアミックス化され、レコードや映画の印象が強いにしても、それらの原型は詩や小説であり、また膨大な歌集や譜本が書店などでも流通販売されていたし、特価本業界=赤本業界の主たる商品でもあった。それらを付録にして成功した雑誌が戦後の『平凡』や『明星』だったのである。

明治から昭和にかけての流行歌や歌謡曲の歴史に関しては古茂田信男、島田芳文、矢沢寛、横沢千秋共著の『日本流行歌史』社会思想社、昭和四十五年)という大著がある。これは著者たちが作詞家なので、六百ページ弱の半分ほどが、「歌詞編」で占められ、また多くの参考資料に基づく「歴史編」もスタンダードな通史として教えられることが多い。だがこれは当然ではあるけれど、流行歌のインフラとしての歌本や譜本の流通販売にはふれていない。

その手がかりをつかめないかと考え、何冊かの関連書を読んでみた。その一冊は『日本流行歌史』の資料に挙げられていない今西吉雄の『今昔流行唄物語』(東光書院、昭和九年)である。実はこの著者の今西の名前は本連載383でふれた渋沢青花の『大正の「日本少年」と「少女の友」』で見ていたので、古書目録で購入したのである。
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渋沢の同書には「今西吉雄君のこと」という一節あり、彼が大阪出身で、『少女の友』主筆の星野水裏に認められ、現代少女小説から始め、時代物や歴史物語を毎月続けて書くようになった作家として紹介されていた。しかも大正四年から七年にかけて掲載された四十編ほどの読切物のタイトル、及び「血汐染盲の振袖」なる歴史物語の第一ページの転載もなされ、「才気煥発」で、これらを書きながら早稲田大学に入った今西が、愛読者にそれなりに人気のあった作家だったことを示唆していた。しかしその後の活躍が期待されていたにもかかわらず、消息が絶え、早稲田実業の教師を務めていたようだが、戦後まもなく亡くなったと記されていた。
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ということはこの『今昔流行唄物語』が今西の残した唯一の単行本であるのかもしれない。今西は「緒言」において、諸国の民謡、各時代の流行唄、軍歌、唱歌を集め始めて二十年になると述べている。それから考えると、『少女の友』の物語作家だった頃から始め、近年に至って「ささやかな日刊新聞」に連載したものをまとめたことになる。

そのような執筆事情も反映してか、流行歌をイメージしながらも、石井研堂の『明治事物起原』 を彷彿とさせる部分や記述も織りこまれている。しかし流行歌についての今西ならではの言及と見解も散見できるので、それらをふたつほど紹介してみよう。
明治事物起原

ひとつは明治三十三年に流行した大和田建樹の「鉄道唱歌」に関してで、この歌のことは私も『書店の近代』(平凡社)で書いているが、これは大阪開成館の三木佐助によって一世を風靡したことになったと伝えられている。しかし今西によれば、「鉄道唱歌」は大和田の作となっているけれど、「実は一無名作家の作を、大和田が補正したに過ぎない」。これを東京開成館の西野虎吉が大阪開成館にいた頃、その無名作家から歌詞を買い取り、出版したものだ。そしてそれが数十万部を売り上げるに至ったのは西野が数人の歌手と楽隊を率い、自らチンドン屋の役目を担い、東海道五十三次を宣伝しながら歩いたからだという。
書店の近代

もうひとつは「演歌の芸術化」についてである。楽天的でユーモラスな色彩の強い流行唄は演歌師によって担われていたが、大正時代になってセンチメンタルなものになり、今日に至っていると今西は述べ、次のように書いている。

 その罪の一端は、流行歌新民謡などを作つて儲けてゐるいはゆる詩人と称する一派が負ふべきである。始めは、文士とか詩人とか云はれる人間が、流行唄を作るなどは、以ての外だと心得てゐた彼等も、遂には流行歌の浄化といふやうな口実を見出して、先ず盛んに新民謡を作り出した。新民謡で味を占めた彼等は、今度は新らしい流行唄、つまりは演歌師の領分を侵して、完全に演歌師の地盤を奪ってしまつたのだ。彼らがそこへ行く橋渡しをしたものは例の「カチユウシヤの唄」である。
 「カチユウシヤの唄」は、トルストイ翁原作の「復活」を、故島村抱月が脚色をして、劇の中に唄はれたもので、カチユウシヤは(中略)松井須磨子が扮した。(中略)「カチユウシヤの唄」は島村抱月と相馬御風の合作で、作曲は中山晋平だつた。(中略)中山晋平は(中略)音楽学校を出て、仕事もなく、ブラゞゝしてゐる風来坊過ぎなかつたのだ。それが(中略)一躍して新作曲家としての地歩を固めたのであつた。即ち「カチユウシヤの唄」は、流行歌の内容を、芸術的ならしめた点で、エポックメイキングな作である。

もう一度、『日本流行歌史』の「歌詞編」の大正時代を見てみると、大正二年に北原白秋「城ケ島の雨」に始まり、三年「カチユーウシヤの唄」、野口雨情「旅人の唄」、五年吉井勇「ゴンドラの歌」、六年白秋「さすらいの歌」などが続いていく。それらの多くは中山の作曲で、確かにこの時代に流行歌も新しく変わりつつあったことを示している。それは今西の指摘と相通じているといえよう。

なお入手した今西の『今昔流行唄物語』は新しい製本が施され、中扉には著者による「謹呈 清水彌太郎様」という署名があった。この清水という人物は誰なのだろうか。何人かが想定されるが、特定はできない。また版元の東光書院は同編『家庭漬物の漬方辞典』などの刊行物からすると、特価本業界に属しているように思われ、ここでも歌本とその業界の関係が表われているのではないだろうか。

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