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混住社会論71 ローラン・カンテ『パリ20区、僕たちのクラス』(ミッドシップ、二〇〇八年)とフランソワ・ベゴドー『教室へ』(早川書房、二〇〇八年)

パリ20区、僕たちのクラス 教室へ



ローラン・カンテの映画『パリ20区、僕たちのクラス』は郊外を背景としているわけではないが、パリの内なる郊外とでも称すべき20区の中学校を舞台とし、移民社会、すなわち混住社会を表象する物語となっているので、本稿でフランスを離れることもあり、ここで言及しておくべきだろう。

この映画は二〇〇八年のカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞し、しかもそれはフランス映画としては二十一年ぶりのことで、国内では一五六万人、国外では三六八万人を動員するヒットとなったと伝えられている。ただ日本おいては公開されたものの、テーマもあってか、それほど話題にならなかったと思う。〇八年の映画ベストテンなどが発表される『キネマ旬報』(二〇〇九年二月下旬号)を確認してみたが、その年の収穫として挙げられていなかった。私にしてもミニシアターでの上映を見逃してしまい、DVDでしか観ていない。

だがこの映画がパルムドールという映画祭最高賞を受賞し、その原作もフランスでベストセラーとなっていたので、日本でも同年に原作のフランソワ・ベゴドー『教室へ』(秋山研吉訳、早川書房)が刊行されている。原タイトルはEntre les murs =壁の中、塀の中で、これは具体的にコレージュ=中学校のことをさすゆえに、邦訳としては『教室へ』が選ばれたのであろう。また本来の映画タイトルも原作と同様で、『パリ20区、僕たちのクラス』という題名は日本での公開にあたって、舞台とストーリーに合わせ、新たにつけられたと推測できる。それゆえに小説にしても映画にしても、タイトルは教室のメタファーと見なされているが、こちらに引きつけて解釈すれば、壁の外でなく、壁の中にあるパリの内なる郊外状況を浮かび上がらせているように思える。小説では19区、映画は20区の設定と相違はあるにしても、両区はパリのボーダーともいうべき東部に位置し、壁の外とダイレクトにつながっていることも認識すべきだろう。

教室へ

その内なる郊外状況は、『教室へ』の著者フランソワ・ベゴドーが脚本に参加し、自ら主演を務めていることも相乗し、その混住授業は生徒も含めてドキュメンタリーのようで、リアルこの上なく、私たちはあたかもその授業参観に立ち会っているような気になる。実際にベゴドーは19区のコレージュにおける国語教師の経験をベースにして、『教室へ』を書いたのである。そうした意味において、私たちもまた壁の外ではなく、壁の中に召喚されているのだ。

さて少しばかり前置きが長くなってしまったが、まずDVDジャケット裏に示された「移民が多く住む20区の中学校を舞台に、人種も生いたちも様々な10代の多感な生徒たちの1年間を映し出す」映画のストーリーを紹介してみる。もちろんそこには特有のバイアスがかかっていることを否定できないけれど、それもひとつの見方であるからだ。

 パリ20区にある中学校の教室。始業ベルが鳴ってもおしゃべりは止まらず、注意すれば揚げ足をとる“問題あり”の生徒たちに囲まれて、国語教師のフランソワの新学期は始まった。移民が多く、母国語も出身地も異なる24人の生徒たちに、フランソワは正しく美しいフランスを教えようとしていた。しかし、スラングに慣れた生徒たちは反抗的な態度で教科書の朗読さえ拒否する始末。言葉の力を教えたいフランソワは、生徒たちとの何気ない対話の一つ一つが授業と考え、どの生徒にも真正面から向き合うあまり、彼らの未熟さに苛立ち、悩み、葛藤する…。

それにしても前回映画と小説におけるマリクの名前の反復を見たが、ここでも同様にフランソワが繰り返され、後述する『灰色の血』の著者もフランソワである。これらは生徒にしても教師にしても、誰もが遭遇してしまう問題を象徴しているのだろうか。本連載66のヴォートランの『グルーム』の主人公は郊外の中学の美術教師だったし、その授業も描かれていた。また同65などで堀江敏幸の『郊外へ』に紹介されていたフランソワ・ボンの『灰色の血』という郊外の高校での文章教室のテーマとする作品の事も既述しているので、郊外をめぐる学校と授業の問題にはいささかの注視を与えてきた。
グルーム郊外へ

しかし『パリ20区、僕たちのクラス』『教室へ』においては、とりわけ前者は映画であるゆえに視覚的にも生々しく迫ってくる。したがってここでは主として映画に沿って論じ、それに小説を参照するようなかたちで進めてみよう。なお映画と小説の登場人物、ストーリーはほぼ同じであるが、区や学年の設定、事件当事者などに多少の異同が認められることを付記しておく。

『パリ20区、僕たちのクラス』は二時間を超える全編がすべて学校内のドラマとして展開され、外部の風景が挿入されることもない。それは中学校、教師、生徒たちのありのままの日常を提出し、そこで起きる現実こそがこの映画のテーマに他ならないということを告げているのだろう。厳密に計ったわけではないけれど、映画の時間は半分以上が授業風景で占められ、それ以外は職員会議、父兄や生徒を伴う成績認定兼懲罰会議、父兄との面接などで構成されている。昼休みや放課後の校庭でのサッカーシーンもあるにしても、それらはわずかな時間しかない。そうした配分から考えると、この映画は教室の授業における教師と生徒の関係を描くことに向けられていると見なせよう。それに対して、職員会議、成績認定兼懲罰会議、父兄との面接は、学校と社会の関係を表出させ、映画に占める時間と逆の社会、学校、教師、生徒というヒエラルキーの存在を露呈する。

だが当然のことながら、教師たちの世界も各人の社会とヒエラルキーがあり、校長や指導主事もいる。新学期の自己紹介と会話において、それらが否応なくもれてしまう。歴史地理の教師の前任校はパリ郊外だったので、ようやく市内に入れたと喜びをもらす。これらの微妙なニュアンスに関して、映画では伝わらないところもあるので、小説のほうを確かめてみると、新たに赴任してきた教師が半分を占め、この「壁のこっち側」の中学校が「楽なコレージュ」ではなく、映画で語られる「根性」の必要性と照応しているとわかる。著者と同名の主人公のフランソワは国語教師で、4年3組の担任である。

教師に対する生徒たちは一クラス24人で、14人から15人、すべての生徒たちの出自はわからないのだが、白人のフランス人は半分以下で、マグレブ、アフリカ、カリブ、中国系の移民の息子や娘たちからなっている。つまりフランス語を母国語としていない生徒たちが半数以上を占め、教師フランソワと生徒たちが織りなす国語授業は、言葉をめぐる闘争ならぬ紛争のような場と化していく。

例文の主語がどうして白人のフランス人の名前でなければならないのか。直説法半過去と接続法半過去の使い分けは必要なのか。先生はゲイなのか。教師の側からはそうした生徒たちに対し、クズでサイテー、不真面目で騒ぐしかない連中、発情した動物のように走り回り、何ひとつ覚えていない連中と動物のメタファーで悪罵が飛ぶ。

しかし国語の授業が進み、『アンネの日記』を読むことをめぐって、フランソワと生徒たちは対立する。フランソワはそれを読ませることで、生徒たちの自己紹介文へと役立たせたいのだが、生徒たちはアンネとちがって人生が面白くなく語ることもないし、学校にきて食べて帰るだけなのだという。ここで露出しているのは、フランス語を読むことと書くことをめぐる教師と移民系の生徒たちとの対立である。その延長線上に「ペタス」という娼婦をさす言葉の使用をめぐる紛争も出来してくる。そしてさらに物語は個々の生徒たちにまつわる事件や懲罰、親子関係へと展開され、一人の生徒の母国への送還に及ぶかもしれない退学問題へともリンクしていく。
アンネの日記

だがここでフィルムを止め、唐突ながらピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』(石井洋二郎訳、藤原書店)へと問題を転回させたい。ブルデューはカントをもじった「社会的判断力批判」というサブタイトルを有する『ディスタンクシオン』において、フランスの社会を庶民階級、中間階級、上流階級(支配階級)に分類し、それぞれの階級が日常生活も含む広義の文化の中で独白のハビトゥス=規範と慣習行動を有し、それが各階級のディスタンクシオン=区別と卓越化を決定し、多様な場が形成され、階級間外での象徴的闘争が繰り拡げられている実態を描き出した。
ディスタンクシオン

『ディスタンクシオン』は一九七九年に刊行されているので、『パリ20区、僕たちのクラス』よりも三十年前の社会学研究書といえるが、次のような中等教育システムに関する指摘は、庶民、中間階級に対してはともかく、移民階級についてはまったく変わっていないように思える。

現在の状態においては、庶民階級・中間階級の大量の子供たちを排除するということはもはや第六級進学時[コレージュ入学時]にはおこなわれていないが、しかしながら少しずつ目に見えないかたちで、中等学校の最初の何年かを通じてずっと、そんなことはしていないと否認されてはいながらも、いくつかの排除形式としての勉強の遅れ(あるいは遅らせること)であり、次に、二流ルートへの追放―これはその生徒に印をつけ、烙印を押すという効果をもっており、ある学歴上の、あるいは社会的な宿命というものを本人にあらかじめ否応なく認識させるものだ―であり、最後に、価値下落してしまった肩書の授与である。

『ディスタンクシオン』が現在の著作であるならば、そこに庶民、中間、上流階級に続く第四階級としての移民が加えられるかもしれない。

もう少しブルデューの用語を借りて進めてみよう。映画の中でフランソワと生徒たちが展開する国語の授業は、移民の生徒たちが学校教育を通じて、様々な知識である身体化された文化資本を得ることとができるかどうかというアポリアを問うているように思える。しかも『ディスタンクシオン』の訳者の石井洋二郎が、ブルデューの階級による職業分類を原語とともに一覧表として示しているが、それによれば、フランソワは上流階級(支配階級)に属する中等教育教授=リセ、コレージュの教師ということになる。つまり映画に映し出されている国語授業は上流階級(支配階級)と移民(第四階級)との象徴闘争と見なすことができる。

おそらくブルデューが『ディスタンクシオン』を書いた時代よりも、移民や難民を伴ったフランス学校制度の中での混住社会の問題は多くのアポリアを抱えながら進行していったと思われる。そしてそれを直視しながら、フランソワ・ベゴドーは『教室へ』を書き、『パリ20区、僕たちのクラス』の主演を引き受けたのではないだろうか。

『教室へ』原書は未見であるが、訳者の秋山によれば、裏カバーには次のようなフランソワの言葉が記されているという。「何も言わず、解説に飛躍せず、知と無知の交わる地点、ぎりぎりの地点にとどまること、それがいかなるものなのか、いかなる経過をたどり、いかなる働きをするのかを示すこと。言葉を事実で、概念を行為でばらばらにすること。労苦に満ちた日常をありのままに提示すること」と。そして唐突なシーンではあるのだが、『パリ20区、僕たちのクラス』の最後は教師も生徒も不在な午後の教室の中の机と椅子が音もなく映され、それで終わっている。その最後のシーンは小津安二郎の映画を彷彿とさせ、知られざるパリの風景を伝えようとしているかのようだ。

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」70  マブルーク・ラシュディ『郊外少年マリク』(集英社、二〇一二年)
「混住社会論」69  『フランス暴動 階級社会の行方』(『現代思想』二〇〇六年二月臨時増刊、青土社)
「混住社会論」68  ディディエ・デナンクス『記憶のための殺人』(草思社、一九九五年)
「混住社会論」67  パトリック・モディアノ『1941年。パリの尋ね人』(作品社、一九九八年)
「混住社会論」66  ジャン・ヴォートラン『グルーム』(文春文庫、二〇〇二年)
「混住社会論」65  セリーヌ『夜の果ての旅』(原書一九三二年、中央公論社、一九六四年)
「混住社会論」64  ロベール・ドアノー『パリ郊外』(原書一九四九年、リブロポート、一九九二年)
「混住社会論」63  堀江敏幸『郊外へ』(白水社、一九九五年)
「混住社会論」62  林瑞枝『フランスの異邦人』(中公新書、一九八四年)とマチュー・カソヴィッツ『憎しみ』(コロンビア、一九九五年)
「混住社会論」61  カーティス・ハンソン『8Mile』(ユニバーサル、二〇〇二年)と「デトロイトから見える日本の未来」(『WEDGE』、二〇一三年一二月号)
「混住社会論」60  G・K・チェスタトン『木曜の男』(原書一九〇八年、東京創元社一九六〇年)
「混住社会論」59  エベネザー・ハワード『明日の田園都市』(原書一九〇二年、鹿島出版会一九六八年)
「混住社会論」58  『日本ショッピングセンターハンドブック』と『イオンスタディ』(いずれも商業界、二〇〇八、〇九年)
「混住社会論」57  ビクター・グルーエン『ショッピングセンター計画』『都市の生と死』(いずれも商業界、一九六九、七一年)
「混住社会論」56  嶽本野ばら『下妻物語』(小学館、二〇〇二年)
「混住社会論」55  佐伯一麦『鉄塔家族』(日本経済新聞社、二〇〇四年)
「混住社会論」54  長嶋有『猛スピードで母は』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」53  角田光代『空中庭園』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」52  宮沢章夫『不在』(文藝春秋、二〇〇五年)
「混住社会論」51  吉本由美『コンビニエンス・ストア』(新潮社、一九九一年)と池永陽『コンビニ・ララバイ』(集英社、二〇〇二年)
「混住社会論」50  渡辺玄英『海の上のコンビニ』(思潮社、二〇〇〇年)
「混住社会論」49  いがらしみきお『Sink』(竹書房、二〇〇二年)
「混住社会論」48  佐瀬稔『金属バット殺人事件』(草思社、一九八四年)と藤原新也『東京漂流』(情報センター出版局、一九八三年)
「混住社会論」47  山本直樹『ありがとう』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」46  重松清『定年ゴジラ』(講談社、一九九八年)
「混住社会論」45  ジョン・ファウルズ『コレクター』(白水社、一九六六年)
「混住社会論」44  花村萬月『鬱』(双葉社、一九九七年)
「混住社会論」43  鈴木光司『リング』(角川書店、一九九一年)
「混住社会論」42  筒井康隆『美藝公』(文藝春秋、一九八一年)
「混住社会論」41  エド・サンダース『ファミリー』(草思社、一九七四年)
「混住社会論」40  フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(平凡社、二〇一三年)
「混住社会論」39  都築響一『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、一九九七年)
「混住社会論」38  小林のりお と ビル・オウエンズ
「混住社会論」37  リースマンの加藤秀俊 改訂訳『孤独な群衆』(みすず書房、二〇一三年)
「混住社会論」36  大場正明『サバービアの憂鬱』(東京書籍、一九九三年)
「混住社会論」35  ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(C-Cヴィクター、一九七八年)
「混住社会論」34  エドワード・ホッパーとエリック・フィッシュル
「混住社会論」33  デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』(松竹、一九八六年)
「混住社会論」32  黒沢清『地獄の警備員』(JVD、一九九二年)
「混住社会論」31  青山真治『ユリイカ EUREKA』(JWORKS、角川書店、二〇〇〇年)
「混住社会論」30  三池崇史『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(大映、一九九五年)
「混住社会論」29  篠田節子『ゴサインタン・神の座』(双葉社、一九九六年)
「混住社会論」28  馳星周『不夜城』(角川書店、一九九六年)
「混住社会論」27  大沢在昌『毒猿』(光文社カッパノベルス、一九九一年)
「混住社会論」26  内山安雄『ナンミン・ロード』(講談社、一九八九年)
「混住社会論」25  笹倉明『東京難民事件』(三省堂、一九八三年)と『遠い国からの殺人者』(文藝春秋、八九年)
「混住社会論」24  船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1