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古本夜話409 永井荷風『日和下駄』と『明治の浮世絵師 小林清親展』

前回のそれぞれの文学者による『大東京繁昌記』を読みながら思い出されるのは、タイトルが借用されている寺門静軒の『江戸繁昌記』や服部撫松の『東京新繁昌記』だけでなく、内容からいえば、永井荷風の『日和下駄』であった。それはまた最近古本屋の均一台から、春陽堂文庫の『日和下駄』を拾い、再読したことにもよっている。
大東京繁昌記 大東京繁昌記 江戸繁昌記 

この奥付を見ると、昭和七年発行、同十六年第十二版とあり、着実に版を重ねているとわかる。『日和下駄』は大正四年にサブタイトル「東京散策記」を付し、籾山書店から刊行されている。その後春陽堂『荷風全集』に収録され、その関係から春陽堂文庫にもなったのであろう。再びの文庫化は半世紀後であり、昭和六十一年の野口富士男編『荷風随筆集』岩波文庫)に収録されるのを待たなければならなかった。なおその後、川本三郎編の講談社文芸文庫版も出されている。
荷風随筆集 日和下駄

荷風はその「序」を次のようにしたためている。ルビは省略する。

 東京市中散歩の記事を集めて日和下駄と題す。そのいはれ本文のはじめに述べ置きたければ改めてこゝには言はず。日和下駄は大正三年夏のはじめころよりおよそ一歳あまり、月々雑誌三田文学に連載したりを、此度米刃堂主人のもとめにより改竄して一巻とはなせしなり。茲にかく起稿の年月を明にしたるは此書板成りて世に出づる頃には、篇中記する所の市内の勝景にして既に破壊せられて跡方もなきところ尠からざらん事を思へばなり。見ずや木造の今戸橋は蚤くも変じて鉄の釣橋となり、江戸川の岸はせめんとにかためられて再び露草の花を見ず。桜田御門外また芝赤羽橋向の閑地には土木の工事今将に興らんとするにあらずや。昨日の淵今日の瀬となる夢の世の形見を伝へて、拙きこの小著、幸に後の日のかたり草の種ともならばなれかし。

そうして荷風は江戸切絵図を参照し、東京の散策を始めていく。それらは裏通りに必ずある多くの淫祠、古くからの樹木、寺、海と河と堀と溝に象徴される水景、地図にも見えない路地、雑草の生えている閑地、ピクチャレスクな風景をもたらす崖と坂、夕日などをめぐる散策である。

『日和下駄』が収録されている岩波書店の旧版『荷風全集』第十二巻 の口絵に小林清親の「元柳橋両国遠景」を見ているので、カタログ『明治の浮世絵師 小林清親展』(静岡県立美術館)を荷風の東京散策のお伴として読んでいくと、荷風が求めていた風景が浮かび上がってくるように思われる。例えば「東京名所画」の中の「今戸橋茶亭の月夜」「今戸有明楼之景」「今戸夏月」を見ると、「序」にあった木造の今戸橋、小説「すみだ川」(『すみだ川・新橋夜話』所収、岩波文庫)で主人公がその欄干にもたれていたり、幼馴染と会う約束をした今戸橋のことが想起される。その他にも水景や夕景は「東京名所画」の多くに描かれ、荷風の『日和下駄』と清親の「東京名所画」は合わせて読むべきだし、見るべきだとの強い確信を得るに至った次第だ。
すみだ川・新橋夜話


さてこの『日和下駄』だが、荷風の文学世界を形成する小説と『断腸亭日乗』の影に隠れ、小品的随筆と目され、それほど評価されてこなかったし、磯田光一『永井荷風』講談社)や江藤淳『荷風散策』(新潮社)にもそれは明らかである。後者の場合はタイトルに「散策」を採用しているにもかかわらず、『日和下駄』への直接的言及はない。だが『日和下駄』はは同時代に勃興しつつあった柳田民俗学今和次郎たちの考現学にもヒントを与えていたのではないだろうか。
荷風散策

それらも含め、『日和下駄』は昭和五十年代になって、新たに読まれ始めたように思われる。岩波文庫化もそれを反映しているのではないだろうか。それは「永井荷風『日和下駄』の後日譚」である冨田均『東京徘徊』(少年社)を嚆矢として、昭和後半の東京風景論と散歩編が提出され、それはバブル時代の下町などに代表される東京の再発見へとつながり、川本三郎『荷風と東京』都市出版)、それが連載された『東京人』『散歩の達人』といった雑誌の創刊へとも結びついていった。
荷風と東京 東京人散歩の達人

かくして『日和下駄』における風景のパセイスト兼掃苔=探墓を伴う散策者としての荷風は新たに発見されたといえるし、同時期に荷風も会員に名前を連ねていた集古会が、山口昌男などによって再発見、再評価されつつあったことも偶然ではない。これはあまり知られていないけれども、昭和十年の集古会会員名簿『千里相識』(書誌研究懇話会編『書物関係雑誌細目集覧』一所収、日本古書通信社)に麻布区市兵衛町、つまり偏奇館を住所とする永井荷風の名前が掲載されている。

集古会とその会員、会員誌としての『集古』については本連載でこれから取り上げていくつもりだが、荷風との関係は詳らかではない。『集古』への寄稿もないし、集古会についても書き残していないし、いつ会員になったのかも判明していない。しかし『日和下駄』に表われているパセイストとしての散策者は集古会の人々に共通するものであり、日記の『断腸亭日乗』にしても、集古会にあってはその先達として、すでに明治時代から山中共古が『共古日録』(『見付次第/共古日録抄』パピルス)、三村竹清が『不秋草堂日暦』を綴っている。
断腸亭日乗 見付次第/共古日録抄(『見付次第/共古日録抄』)

荷風の大正三年の『日和下駄』、同六年から始まる『断腸亭日乗』もそれらを意識していたとも考えられる。そしてまた『四畳半襖の下張り』のようなポルノグラフィにしても、本連載で言及予定の岡田紫男の「お千代船」などの影響を受けているのかもしれない。この「お千代船」はまさに清親が描いた今戸橋聞書のように仕立てられているからだ。
それを探索するために、これから『日和下駄』と『四畳半襖の下張り』と集古会のラインを追ってみることにしよう。

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