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古本夜話413 木屋太郎訳のミラア『セックサス』

松川健文が営んでいたロゴスという出版社に関しては、斎藤夜居『大正昭和艶本資料の探究』の中で、、十ページにわたって書いている。それは昭和二十七年に、中年の紳士が千代田区代官町にある国際文化会館を訪れる場面から始まっている。そこに図書出版の作品社とロゴスがあり、その事務所の机の上に東京限定版クラブの郵便受一箇が置かれていた。地方からきた紳士の目的は東京限定版クラブから出された会員制雑誌『奇書』の創刊号を入手することだった。これはおそらく斎藤の知人の体験だと思われる。

大正昭和艶本資料の探究   

つまりそれらの詳細と関係は定かでないが、作品社とロゴスと東京限定版クラブは事務所を同じくしていたことになる。斎藤によれば、作品社は昭和二十三年に堀口大学の詩集『乳房』や青柳瑞穂訳のヴェルレーヌの秘稿詩集『女友達』の限定版を出し、愛書家の間で知られていたとある。堀口大学と限定版詩集といえば、ただちに本連載54の秋朱之介の名前が浮かぶが、彼の『書物游記』に掲載はない。また作品社という社名から、戦前に山内文三が興し、『梶井基次郎小説全集』などを刊行した出版社を連想するが、同時代の出版社名簿を見ると、こちらは中央区銀座が所在地となっているので、同名でも異なる出版社だと考えられる。

それはともかく、斎藤は昭和二十七年から二十九年にかけて、十六号まで刊行された『奇書』の主要目次を示し、発行部数三五〇部ほどの会員配布の雑誌だったので、入手し難いものになっていると書いている。それらの寄稿者には本連載441269などで言及してきた花房四郎から伏見冲敬といった梅原北明グループから『あまとりあ』人脈、松村喜雄から青柳瑞穂や松浪信三郎などのフランス文学者の名前も見え、昭和初期から戦後にかけての執筆者や翻訳者の連鎖がはっきりとわかるし、夏川文章=松川健文もいる。

さて作品社と東京限定版クラブの『奇書』にはふれたので、松川が主宰していたのであろうロゴス(ロゴス社)に移りたい。ロゴス社の本はヘンリ・ミラア『セックサス』上巻、ロレンスの『チャタレイ夫人』の二冊を持って、いずれも木屋太郎訳で、昭和二十七、八年に刊行されている。発行所はロゴス社となり、刊行者は岩淵博となっているが、二冊の訳者木屋太郎はやはり松川のペンネームではないだろうか。

ここでは『セックサス』の翻訳史をたどってみたい。なぜならば、ロゴス社版の『セックサス』が最初の翻訳であり、それに新潮社版の『セクサス1』(大久保康雄訳)が昭和二十九年に刊行されたが、続刊が出されず、その全訳が刊行されたのは昭和四十年の、同じく新潮社の『ヘンリー・ミラー全集』第三巻においてだった。

セクサス1  

ところがロゴス社から下巻は出なかったにしても、すでに昭和三十一年に高風館から全訳が出版されていたのである。訳者は谷口徹で、「著者について」も木屋が記しているが、訳文はロゴス社とまったく同様なので、谷口も松川のペンネームではないだろうか。高風館は実用書を多く出しているが、そのプロフィルは定かでない。
セックサス (下巻、高風館)

さてロゴス社版と新潮社版と比較してみる。城市郎によれば、前者には背文字SEXUSというラテン語の性を意味する表示の完訳本があるようだが、こちらは未見であり、それは東京限定クラブ版なのかもしれない。

ロゴス社版の木屋による「訳者後記」には「完訳本公刊の不可能」が告げられ、「去勢を施した」が、「不完全な形であるとはいへ、本邦に初めてのミラアの作品を紹介し得たことだけでも当分は満足しておかなければならない」との言が書きつけられている。

それを、訳者の大久保康雄の「あとがき」も「解説」もまったく付されていない新潮社版と比較すると、新潮社版が英文をそのまま転載している部分とほぼ重なるように、ロゴス社版も訳文が削除されていることがわかる。例えば新潮社版でほぼ三ページにわたって、英文のままで処理されている部分があるが、そこはロゴス社版でもほとんど削除されている。

それを考えると、ロゴス社版に準じて、新潮社版は英文処理が施されていたことになる。ロゴス社版は版権を取得していない海賊出版にして会員制頒布が主だったであろうし、版権を獲得した新潮社版は発禁になりかねない部分を英文のままで出版するという処置をとらなければならなかった。

昭和二十年代末とはそのような出版状況にあったのであり、チャタレイ裁判の影響下に置かれていたのだ。ヘンリー・ミラーの著作はアメリカにおいても、一九五〇年代は猥褻にあまりある禁書であり、フランスからひそかに持ちこんで読むしかなかった。

そのヘンリー・ミラーが削除や英文処理を施さずに読めるようになったのは、ノーマン・メイラーが編んだミラー文学の六百ページ近い、分厚いアンソロジーである『天才と肉欲』(TBSブリタニカ、一九八〇年)の野島秀勝の翻訳によってだった。
天才と肉欲

メイラーはこのアンソロジーを編むにあたって、「ヘンリー・ミラーにはいまだ明るみに出されていない謎があり、その謎は偉大な作家というものがどんなに怪物じみたものであるかを告げている」と書いた。その言葉に呼応し、訳者の野島も「あとがき」で記していた。

 メイラーの希求が編んだこのミラー〈アンソロジー〉は、見事に、十分に、ミラーの豊かな多様性、豊饒な謎をとらえ得ている。彼の書いたミラー論は鋭利にミラーの正体に迫り得ている。すでにわが国ではミラー「全集」は出ている、が、正確にいって、それは「全集」ではない、削除版にすぎない。むしろ読者は、このメイラーの〈アンソロジー〉によって、ようやくミラーという現代の怪物、さらに現代そのものの迷宮に入り得るアリアドネの糸を与えられたのだ(後略)。

そしてこのアンソロジーは『セクサス』も百五十ページ近く収録され、削除や英文処理の部分を初めて日本語で読めるようになった。かくしてメイラーがいうミラーの「すべてのことについて詩的になることができたが、愛をともなった性交(ファッキング)について詩的になることは彼にはついに不可能であった」性描写、「もっとも力強く、もっとも卑猥な、もっとも神聖冒瀆的な誇張された彼の熱烈かつ混沌とした文章」に初めてといっていいほど出会ってしまったというか、「その存在感がわれわれに襲いかかってくる」ような鮮烈な印象を受けた。

これは他のアメリカ作家からは得られない特殊な体験で、『天才と肉欲』だけで打ちのめされてしまった。吉本隆明の『書物の解体学』(講談社文芸文庫)におけるミラーの別格さも、このようなミラーの存在感によっているのだろう。そのために近年になって、水声社からすべて新訳の『ヘンリー・ミラー・コレクション』が刊行され始めたが、年齢のこともあり、残念なことにもう一度読んでみようとする気力が沸き上がってこない。

書物の解体学  ヘンリー・ミラー・コレクション

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