(講談社学術文庫)
柳田国男は前回の『都市と農村』に続いて、一九三一年に『明治大正史世相篇』を刊行している。これは朝日新聞社編『明治大正史』全六巻のうちの第四巻として出されたもので、まさに明治大正の「世相」、柳田の「自序」の言葉によれば、「毎日われわれの眼前に出ては消える事実」によって書いた歴史ということになる。しかもこのシリーズの中で、柳田の『明治大正史世相篇』だけが読み継がれ、長きにわたって文庫化され、民俗学のみならず、文学や社会学にも多大な影響を及ぼしてきたと思われる。そうした実例を挙げてみると、吉本隆明もいっているように、柄谷行人の『日本近代文学の起源』(講談社学芸文庫)も確実に柳田の著作を起源としている。
(クレス出版復刻)
しかし文庫以外の『定本柳田国男集』や『柳田国男全集』も同様だが、『明治大正史世相篇』は再刊にあたって、朝日新聞社のA5版初版に収録の一枚の口絵写真が削除されている。それは「第二の故郷」というキャプションが付された田園都市の俯瞰写真である。といって『明治大正史世相篇』に田園都市に関するまとまった言及も見られないし、郊外についてのわずか二ヵ所でふれているにすぎない。またこのような口絵写真が『明治大正史』シリーズのアイテムかというと、そうではなく、それがなかったり、錦絵なども使われたりしているので、『明治大正史世相篇』の田園都市の写真は、柳田の何らかの要請と意図によるものだと考えていい。平凡社の東洋文庫版『明治大正史世相篇』には写真が付されているものの、復刻ゆえに写真が縮小され、鮮明でなく、またキャプションもないので、何の写真かよくわからない。
これには柳田が日本版田園都市計画に基づいて開発された成城学園住宅地において、同書の構想が生まれ、執筆が進められたことも関係しているのではないだろうか。柳田の住居史をたどってみると、これには柳田が日本版田園都市計画に基づいて開発された成城学園住宅地において、同書の構想が生まれ、執筆が進められたことも関係しているのではないだろうか。
柳田の住居史をたどってみると、一九〇一年に彼は柳田家に養子入籍と同時に、青山美竹町の下宿から牛込加賀町の同家に移り住んだ。二三年に国際連盟委任統治委員会委任として赴いたジュネーブで、関東大震災の報を受けて帰国し、二七年に北多摩郡砧村(現在の世田谷区成城町)に書斎兼住居を建て、牛込加賀町から転居している。新たな住まいとして砧村が選ばれたのは、長男の通う成城学園がここに広大な新校地を購入し、周辺の土地を生徒の親に分譲することになり、それに応じたゆえとされる。
柳田国男研究会編著『柳田国男伝』(三一書房)によれば、その分譲一画は四百坪、坪当たり十四円で、柳田家にとっても決断を要する大きな買物だったという。しかし養父の援助を受けたとはいえ、柳田にとっては初めての自らの手になる新居、しかも書斎と図書館を兼ねたものであったから、感慨無量の思いにかられたにちがいない。それゆえに内務省有志による博文館の『田園都市』を通じてのプロパガンダには賛同していなかったものの、思いがけず柳田自身がそこに住み着くことになり、また関東大震災もあり、従来の考えを修正し、砧村の自然の中での老いの自覚も加わり、「第二の故郷」とまで見なすようになったのではないだろうか。そのように考えてみると、『明治大正史世相篇』の口絵写真は柳田の意志によるもので、それはその後もつつがなく開発が進み、田園都市の模範、もしくは世相のひとつにもなった成城学園町の写真のようにも思われる。
山口廣編『郊外住宅市の系譜』はサブタイトルとして、「東京の田園ユートピア」が付されているように、東京の郊外住宅地の歴史をたどっている。郊外の開発が盛んになったのはやはり関東大震災以後で、同潤会の郊外各地での分譲住宅も、渋沢栄一の田園都市株式会社による田園調布、堤康次郎の大泉・国立学園都市や目白文化村、根津嘉一郎の常盤台住宅地、住宅組合による城南文化村などに加え、そこには小原国芳の成城・玉川学園都市も挙げられている。そして小原の学園都市計画は「広びろとした郊外に、学校を建てるだけでなく、学生生徒も教師研究者も父兄も、そして思想的共鳴者もつどい住む教育的理想郷を造ろうとした」とされる。
これらの動向は第一部と称すべき山口廣の「東京の郊外住宅地」に記され、第二部に当たる、それぞれの研究者による「郊外住宅地の系譜」において、「郊外住宅地年表」と「地図」がまず提示されている。それからケーススタディとして、各郊外住宅地への言及があり、都市研究者酒井憲一におる「成城・玉川学園住宅」にも一章が割かれているので、柳田が移り住み、砧村から成城町と地名も変わった成城学園住宅地を見てみよう。実は『小原国芳自伝』(玉川大学出版部)なども読んでも、教育と成城学園のことはともかく、郊外住宅地開発と土地分譲に関してはほとんど語られていないのだが、酒井の論考は具体的な既述、さらに様々な資料や地図や写真を収録し、コンパクトな成城史ともなっている。その写真の中には八〇年代を迎えても現存している柳田の家も含まれている。
だがそれにふれる前に、小原の簡略なプロフィルを提出しておくべきだろう。小原は一八九一年鹿児島県に生まれ、苦学して鹿児島師範、広島高等師範、京都帝大に進み、一九一八年広島高師付属小学校理事となり、ここで学校経営について実地体験する。その一年後、文部次官や京都帝大総長などを歴任し、また成城小学校を創設した沢柳政太郎の要請で、成城小学校主事に就任し、芸術教育を中心とした調和的全人教育を唱えるようになり、関東大震災を契機として、二五年に成城学園の郊外移転を決行するに至る。なおその成功をベースにして、玉川学園と住宅地開発に取り組むことになる。
これは前述したし、酒井も述べていることだが、小原自身よる学園住宅地開発や分譲、学園町建設に関する証言はきわめて少ないし、断片的なものにとどまっている。それゆえにラフスケッチではあるけれど、それらの断片をつなげ、ささやかな見取図を作成してみるしかない。小原によれば、それはコロンビア大学に先例が求められ、同大学は市内の土地を売り、それで遠方の郊外に大学を移転させ、学校経営上に大きな寄与をもたらしたことに発想のベースを置いている。そして郊外の広いキャンパスで理想の一貫教育を展開するという小原の主旨が重なり、東京府下で三万坪以上まとまっている土地が調査され、間もなく工事が始まる小田急沿線へと焦点が当てられた。学校用地から始められた土地買収が次第に進んでいき、最終的には三七万坪に及んだのである。
酒井は昭和三年の「成城学園分譲地広告」を掲載している。それは「小田原急行電車沿線の学園都市/理想的郊外住宅地分譲及び貸地」と銘打たれ、「成城学園講演会地所部」の名前で出されている。広告内容は位置、交通、環境、設備、教育、価格、貸地といった項目に及ぶのだが、そのうちの「学園都市」にして「理想的郊外住宅地」としての環境、設備、教育について抽出してみる。
一、 環境、本分譲地一体(ママ)は喜多見大と称する高台で、地勢は高燥広潤、東南は緑野遠く開らけ、西方は相武の連山を隔てゝ富士の霊峰と相対し、玉川の清流にも程近き実に形勝の地であります。 一、 設備、住宅地としての設備は理想的に施されて居ります。 区画整理は東京府都市計画課と復興局の指示の下に完全に施行せられ、コンクリート下水は道路に沿ふて敷設せられ居ります。 其他病院や郵便局や巡査派出所も設けられて居り、私設水道の設備もあります。
一、 教育、教育機関として成城学園は小学校より高等学校迄連絡(ママ)する七年制の高等学校、外に高等女学校や幼稚園も現に授業して居ります。
ちなみに価格だが、先に柳田が坪十四円で取得したことを記しておいたが、ここでは坪二十円以上とあるので、わずか数年でかなり値上がりしていることがわかる。もちろん坪数やロケーションも関係しているにしても、その事実は「学園都市」兼「理想的郊外住宅地」の人気を物語っていると見て間違いないだろう。そのことを示すように、「同広告」の末尾にはつぎのような文言も見えている。
小田原急行電車開通以来其沿線は驚くべき発展をなしつゝあるが、殊に成城学園を中心とせる学園都市住宅地は沿線中第一の優秀地と称せられ、其の急激なる発展は実に驚異とせられて居ります。
(中略)元来この学園都市建設の目的は、沢柳先生晩年の事業たりし成城学園建設の基金を得るが為めに企てたるものにして、其成績偉大なるは幾多の土地分譲経営者をして驚嘆せしめたる処であります。(後略)
このような成城学園都市と郊外住宅地の開発の成功は教育者ではなく、土地や学園デベロッパーとしての小原を高揚させたにちがいない。彼は昭和四年に南多摩郡町田町に玉川学園を開設し、三〇万坪を買収し、「玉川学園の建設費を得る為に教師が経営する田園都市」「夢の如く美しい文化芸術都市の建設」「高原の学園都市」というキャッチフレーズで分譲を始めたのである。こちらは成城と異なり、天理教との関係、金融スポンサーとしての講談社の野間清治の存在、満州でのセールス、建設会社とのタイアップなどが語られているが、これはまた別の物語でもあるので、これ以上の言及はよそう。
小原が手がけた文化と学園をドッキングさせた成城にしても玉川にしても、やはり同時代の堤康次郎の箱根土地による大泉、小平、国立のそれぞれの学園都市のコンセプトに刺激を受け、あるいは競合して生み出されていったと考えられる。しかしそれらが戦後の郊外と位相を異にし、おそらくハワードの『明日の田園都市』や内務省地方局有志の『田園都市と日本人』の流れを継承し、そのコアとして文化をすえた「東京の田園ユートピア」を建設する試みであったことは特筆すべきであろう。それがR・フィッシュマンがいうところの『ブルジョワユートピア』(勁草書房)であったとしても。
またそれゆえにこそ柳田国男のような人たちにとっても「第二の故郷」のように思われたのであり、そこでの草や鳥の観察を『野草雑記・野鳥雑記』『野草雑記・野鳥雑記』(甲鳥書林、岩波文庫)として刊行することになる。それは砧村に移り住み、十三年余を経た一九四〇年のことであった。