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古本夜話419 小林勇「隠者の焔」と青江舜二郎『狩野享吉の生涯』

狩野享吉は夏目漱石を友人とし、日本の自然科学思想史の開拓者であり、一高校長時代には田辺元たちに大きな影響を及ぼした。また京大文科大初代学長として、幸田露伴や内藤湖南などの大学出身者ではない碩学を招き、文部省と対立して辞職し、その後在野で過ごした。それでも安藤昌益などの江戸思想家たちを発掘し、書画の鑑定売買を業とし、生涯を独身のままで終えた。

だがこの書誌学に深く通じた唯物論者の生涯は、慶応元年から昭和十七年の七十八歳に及んだにもかかわらず、生前に主たる著作は刊行されず、京大退職後の後半生はまったく明らかにされていなかった。ようやく戦後の昭和三十三年になって、狩野の一高校長時代に在学し、後にその校長も務めた安倍能成により、『狩野享吉遺文集』(岩波書店)が編まれ、狩野の数少ない著述を読むことができるようになった。

そのうちの「安藤昌益」(昭和三年)をハーバード・ノーマンが読み、昌益を知り、後に『忘れられた思想家』(岩波新書)を著わしたのはよく知られているが、私にとって最もスリリングな一編だったのは「天津教古文書批判」(昭和十一年)である。これは所謂「竹内文書」批判で、神代文字分析はポーの「黄金虫」や江戸川乱歩の「二銭銅貨」の暗号解読を彷彿させるほど面白く、神代文字が『上記』と同様に、荒唐無稽な近年の偽作という事実が完膚なきまでに剔扶され、狩野の書誌学の深さを知らしめている。

忘れられた思想家

また狩野の晩年までを追跡した青江舜二郎の『狩野享吉の生涯』が昭和四十九年に明治書院から出され、定かでなかった後半生までが描かれることになった。しかしそこに『狩野享吉遺文集』収録の三村竹清の著書に寄せた「蔵書印譜続編序」への言及はあったにしても、狩野が集古会の会員だったことと集古会に関する言及はなされていない。それに加えて、青江の評伝は中公文庫に入る際に、「享吉と性」の章が削除され、同じく集古会の岡田村男が傾倒した江戸時代の性文化に狩野も深く入りこみ、自らも五百枚近い春画を描き、膨大なポルノグラフィを書いていた事実における、青江の解釈が隠蔽されてしまった。

f:id:OdaMitsuo:20210108083414j:plain(明治書院版)(中公文庫版)

その事実を初めて明らかにしたのは、小林勇の昭和四十五年に書かれた「隠者の焔〈小説狩野享吉〉」(同名書所収、文藝春秋)だった。当時小林は岩波書店会長で、『狩野享吉遺文集』の安倍による「年譜付記」の最後に「小林勇は先生の最後や後始末について実によく尽した」と書かれている。ちなみに岩波茂雄は一高時代に狩野の影響を受けて古本屋を始め、それが岩波書店へと至ったとされている。

「隠者の焔」は〈小説狩野享吉〉と付されているように、話者の「私」は三章仕立ての「一 先生の死」において、骨董屋の店員、「先生」の名前は告げられず、フィクション化されているが、「二 二人の思想家」では狩野と安藤昌益が実名で対比され、「三 野原の手記」になると、またしても出版社や編集者はフィクション化され、「先生」も実名で呼ばれていない。しかし「私」や「野原」は「小説」化されているにしても、「先生」は「小説」化されていない。「隠者の焔」の中心にいるのは紛れもない狩野享吉であり、おそらく小林は夏目漱石の『こころ』の構成から、この「小説」を思いついたのだろう。
こころ

「私」と「野原」が「先生」の死後の蔵書を整理していると、ハトロン紙などに入った自筆の春画約五百枚と、四百字詰にして三千枚は下らない三十冊のノートに書かれたポルノグラフィを発見する。絵は緻密を極め、それを書くのに少なくとも五、六年はかかっているはずで、ノートのポルノグラフィにしても、分量からすれば、膨大な時間が費やされたにちがいなかった。そのような秘密にふれたことから、市井の片隅に隠れていた「先生」の心を占めていたのは、これらの仕事が主であったと推測するしかなかった。

「先生」が以前に浮世絵の春画を収集していることは知っていたが、そのような秘密を有していたとはまったく想像もつかなかった。「先生」は老女の姉と同居し、一生独身で過ごしていた。その謎が自らの描いた春画やポルノグラフィに秘められているのだろうか。それらの春画は明治、大正、昭和の風俗を表わし、少しの芸術性も詩情もなく、リアルで、あくの強い感じがあった。ポルノグラフィに「艶魔伝」などと題する「ある一人の美丈夫が、つぎつぎに女を犯す話」だったりして、通俗的な小説の体裁でしかなかった。

それらの春画とポルノグラフィを比べているうちに、「野原」は「先生」に似た顔の老学者と未亡人の物語を見つけ、姉との関係を想像したり、また「先生」が重い病気にかかった時の看護婦らしき「C」という女のことを長々と書いたノートを発見する。そして「野原」はその「C」が「先生」の初恋の人で、柳田千津子であるとわかり、愕然とする。「先生」に事業を持ちこみ、その会社の借金の保証をしたために、経済的苦境に陥り、蔵書を売る原因をつくったのが柳田であり、千津子はその姉か妹だったことになる。これらの事柄が重なり、春画やポルノグラフィに反映されたのではないかと「野原」は考え、「隠者の焔」は終わっている。

これに対して、狩野の膨大な日記と資料を参照して書き上げられた『狩野享吉の生涯』において、青江は小林の「C」=柳田千津子説に対して、「C」は狩野がすべての面倒を見ていた下町の古物商の娘の野田千代子だと反論している。千代子は享吉がスペイン風邪にかかった時に手伝いのために寝泊まりするようになり、そこで二人の間に関係ができたのではないかと青江は推理している。しかしそれは狩野の同居する姉の怒りを買い、二人は別れざるを得なかった。その証拠として、日記にある千代子への暇を出す手当てが二十五円と多いのは、「享吉が手をつけた」ことを意味しているとも青江は書いている。また小林の「美しい未亡人説」、姉との関係説もはっきり否定されている。

だが一般的にはそれらを記した「享吉の性」を削除した中公文庫版の『狩野享吉の生涯』が容易に入手できるために、小林の「隠者の焔」の様々な仮説が、そのまま狩野の真実であるかのように認識されている可能性が高い。もし中公文庫版に重版の機会があれば、「享吉と性」の章を付け加えるべきだと思われる。

だが小林、青江の両書のいずれにしても、狩野のそのような膨大な時間を費やした春画とポルノグラフィへの情熱の謎は解き明かしていない。これはヨーロッパの「性科学」でも解けない、日本特有の性をめぐる一例なのかもしれない。なお狩野の艶本仲間は「変態文献叢書」の追加第二巻『軟派珍書往来』の著者の石川巌だった。

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