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古本夜話421 横尾文行堂、狩野快庵『狂歌人名辞書』、浅倉屋

『欣賞会記録』に記された五百冊余の稀書珍籍の万華鏡的な壮観さを見るにつけ、このような蒐書がどのようにして成立したのだろうかと想像してしまう。それは『集古』も同様で、当時の多様な蒐集家人脈と、古本屋を始めとする古物を発掘し提供する、活発で多様なインフラの存在を知らしめている。そしてこのようなインフラを背景にして、『集古』の会員を中心とする稀書複製会が立ち上げられたのであろう。

岡田紫男の『紫艸』の取次と書肆を兼ねていた下谷の横尾文行堂や浅草の浅倉屋書店は、『集古』の人々にとって、掛け替えのないトポスであり、山口昌男『内田魯庵山脈』での言葉を借りれば、「愛書家にとって、いくつかの古本屋は、一種の隠れ里であった」。また「彼らにとっては古本屋は、他の時間、空間へワープする場所であった」。

内田魯庵山脈

そして山口は同書の「古本屋の二階で」において、文行堂の二階で催されていた、会員が持ち寄った珍本をバラして分ける王屑会、その主人の写真を掲載し、横尾勇之助が集古会や明治文化研究会の会員で、三村竹清と『蔵書印譜』の共編者だったこと、森銑三が文行堂の常連で、その随筆にもよく書いていることなどを報告している。

横尾勇之助は魯庵の「『杏の落ちる音』の主人公」においても、「珍本屋の主人の松江(ずんこう)」として登場し、「或る珍本屋の二階で入札会があつた。紫男も来てゐた。其外に合田学士、平井博士、若松男爵といふやうな名代の珍本蒐集家の顔が六七人も見えた」とある。これは紛れもない横尾文行堂の情景といえよう。

さて山口も魯庵も言及していないが、文行堂は出版も行なっていて、その一冊が手元にある。それは狩野快庵著『狂歌人名辞書』で、文行堂横尾勇之助、廣田書店廣田健一郎を共同発行者として、昭和三年に菊判革装、二百七十余ページで出版されている。巻頭に編者による「例言」が置かれ、「此書の編纂に当り林若樹、三村竹清、上田花月、星野朝陽、西村桃里、秋農屋望成、蟹廻屋左文の諸先輩からの出格の援助を蒙つた」との謝辞がある。編者名は表記されていないが、狩野快庵と見なしていいだろう。この内容については、巻末の発行所の「謹告」を引くのが最もふさわしいと思われる。

 今回出版の「狂歌人名辞書」は狂歌の考証家として有名なる快庵狩野先生の編纂にして昔より甚難の事業として誰一人手を着けし者なき狂歌師三千有余名の伝記を忠実に簡明に記述せられたるものにして其の外、狂歌に関連せる戯作者、狂詩家又は浮世絵師等実に軟文学の大家を網羅せられ候

ただこの狩野快庵については、謝辞の人名から考えても集古会関係者と思われるので、昭和十年の会員名簿『千里相識』を当たってみると、京都在住と記されているだけだが、会員であった。『狂歌人名辞書』のほうを探索してみると、市古貞次編。『国文学研究書目解題』東大出版会)に立項され、「狂歌のみならず広く近世文学に益するもの」との評価が付されていた。そこに寄せられた書誌によれば、昭和五十二年に臨川書店から復刻が出ているようだ。だが狩野に対する言及は何もない。ただその後の調べによって、本名は狩野勝太郎と判明した。


さて横尾文行堂と並ぶ浅倉屋であるが、こちらは昭和十五年(皇紀二千六百年)に刊行された古書目録で、徳富蘇峰の題字からなる『浅倉屋書目』庚辰号の一冊を持っている。扉には「創業 貞享年間(二百五十余念)」と記され、次ページに十一世を継いだ吉田久兵衛の「久しく休刊仕り誠に御不便相懸申居候弊店書目御蔭様にて此佳歳漸く出来仕り御手許迄御届け申し上候事欣悦の至に有居候」との挨拶がしたためられている。

菊判百四十二ページに及ぶ『浅倉屋書目』はすべて古典籍で構成され、本草・農書、書目、書誌、神道、和歌、随筆、雑考、江戸文学、歌謡、教訓、天文・暦、兵書・武術・武器・砲術、銭貨、漢籍雑書、詩文集、唐本(支那印行書)という分類になっている。私には古典籍に関する素養が欠けているので、このような書物の宇宙に関する見解を述べることができないが、それでも『集古』の会員たちの蒐集、及び書物への関心とコレスポンダンスしていると想像できる。

それらの中でも山中共古と岡田紫男が古銭の専門家であったことは知っているし、共古の『見付次第/共古日録抄』の編集に際して、共古の古銭論は読んでいることもあり、「古銭」の部分における五十五冊の書名は圧巻だと思うしかなかった。成島柳北は古泉家として著名だが、その西洋古銭譜である『群礦一塊』全二冊は写真入りで掲載され、六十円の古書価である。

見付次第/共古日録抄

また同じく柳北の『明治新撰泉譜』第一、三集の二冊は八円で、何と「岡田村雄朱筆書入本」との注記がある。紫男が亡くなったのは明治四十四年だから、この事実はおそらく彼の蔵書は文行堂や浅倉屋を通じて、同好の士へと継承されていったことを物語っているのだろう。なお、廣田書店も浅倉屋も、文行堂と同様に集古会会員であった。

『集古』の人々と「一種の隠れ里」のような古本屋が織りなした、本をめぐるドラマが失われて久しい。「ああ麗(うる)はしい距離(デイスタンス)/常に遠のいていく風景……」という吉田一穂の詩が思い出される。

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