日本版田園都市計画と称していいであろう郊外住宅地の開発が進められていくかたわらで、一九一八年に郊外論の先駆的一冊というべき、小田内通敏の『帝都と近郊』が刊行されている。かつて「郷土会、地理学、社会学」(『古本探究3』所収)という一文を書き、一九一〇年に柳田国男と新渡戸稲造を中心として発足した郷土会、及びその研究報告としての『郷土会記録』(大岡山書店、一九二五年)に言及したことがあった。
その郷土会メンバーの中に人文地理学を専攻する小田内通敏がいて、柳田国男研究会編『柳田国男伝』(三一書房)によれば、『農業本論』(『明治大正農政経済名著集』7所収、農文協)を著し、農村研究を意味する「地方(じかた)学」を提唱していた新渡戸稲造と柳田を結びつけたのは他ならぬ小田内だったという。その小田内について、『柳田国男伝』は地理学の飯塚浩二の小田内に対する追悼文を引きながら、次のように述べている。
東京高等師範地歴専修科に学んだ小田内は、少壮の活動時代の大半を早稲田中学の教諭、早稲田大学の講師として過ごした。隣接の歴史学とちがい、大学の講座編成では著しくたち遅れ、しかも官学の正統派が牛耳る地理学界において、小田内は、草創期の苦難の道を歩んだ学者であった。
聚落地理や農村の社会調査が、ほとんどの地理学者、教師の関心をひかなかったとき、小田内は、不朽の名著『帝都と近郊』(大正七年)において、東京西部近郊村落を取り上げ、三年間の実地調査にもとづき、大都市の郊村が都市化されていく複雑な過程をみごとに叙述するとともに、将来の都市計画の樹立を促進しようという遠大な抱負を示したのである(後略)。
これを日本地誌研究所編『地理学辞典』における小田内の立項から補足すると、彼は一八九九年秋田市生まれで、郷土会の後に聚落地理学を創立し、また人口問題研究会に参画し、日本の人文地理学、集落地理学の基礎を築いたとあり、戦後の五四年に没している。また戦前だけで十指を超える著書が挙げられているが、文庫化などはされておらず、『同辞典』にあるように現状でも「不遇な地位」に置かれているといってもいいかもしれない。私にしても読み得たのは『帝都と近郊』と『田舎と都会』(刀江書院、一九三六年)の二冊だけで、前書は一九七四年の有峰書店の復刻版によっている。
『帝都と近郊』は前述したように、一九一八年に大倉研究所から刊行されている。「序」を寄せ、翌年に東京帝大理学部地理学主任となる山崎直方によれば、大倉研究所は大倉発身なる人物が学究的な村落研究を試みるために立ち挙げ、小田内が山崎の推薦を受けて入所し、三年にわたる研究がこの『帝都と近郊』だという。なお大倉は「実業界の成功者」とあるので、おそらく大倉一族に属していたのではないだろうか。
山崎の他に「序」を寄せているのは井上友一と新渡戸稲造で、前者は本連載72の内務省地方局有志『田園都市』の執筆編纂者の一人で、「本書の研究も(中略)都市計画の施設上郊外農村の研究上に資する所甚だ多かるべきを信じて疑はず」と述べている。また新渡戸はこの「武蔵野の一隅なる東京の近郊」の地理学研究書について、著者自らが「雨露を犯し或は泥濘を踏み、日々徒歩にて研究地域を踏査し、自から其地物を撮影し、地図の如きも多くは臨地製作し」たもので、地理学のみならず、「帝都附近の民衆生活を窺はんとする者には、欠くべからざる参考書」だと記している。
この三人の「序」に続き、小田内の「自序」が置かれ、「研究の第一着手として帝都の近郊を選んだのは、近郊の都市化せらるゝ複雑なる現象が村落生活の一標式として研究の価値多い」ということもあるが、「東洋史の新進研究家」でもあった大倉の、欧米における田園都市計画への注視にもよっていることが付け加えられている。つまり『帝都と近郊』は明治後半から大正にかけての武蔵野を中心とする「帝都」の「近郊」の膨張、新渡戸と柳田国男たちの郷土会における「地方学」と農政学の接合、イギリスのハワードの田園都市計画の影響を受けた日本の内務省の田園都市構想などがクロスした時点で、満を持して刊行されたことになる。それゆえに「不朽の名著」というオマージュを捧げられたのであろう。
目次と最後のページに「都市及村落の研究」という角書が付された『帝都と近郊』は菊判二一五ページで、大著とはいえないけれど、用意周到な一冊であることが読み出すとすぐにわかる。これこそが近代において、初めて人文地理学視座から都市と郊外の関係を探求し、都市人口の増加と社会、経済的発展が郊外としての農村に与えた影響を論じた嚆矢なのである。
まず「東京市の郊外地帯」の歴史がたどられる。江戸時代においても「郊外たる熟語は、従来我国に於ても慣用せられたる」が、それは江戸より徒歩で日帰り遊覧できる地域、江戸に新鮮なる蔬菜を供給する栽培地、及びそのために人糞尿の搬入地帯をさしていた。そうした郊外の定義は変わっていないにしても、東京市の明治三十二年の百五十万人から大正六年の二百三十五万人に及ぶ人口増加、それに伴う蔬菜栽培地帯の拡大と運搬道路の改善、汽車や電車といった交通機関の発達による、一日で往復できる地域の拡大、住宅地域の出現を見るに至った。そうして近代の郊外が出現してきたのであり、それが『帝都と近郊』のテーマに他ならない。かくして「本書が東京市の郊外地帯の限界を中心日本橋かり直径約五里における所似にして、其範囲は総図に示せるが如く、東京府下より千葉・埼玉二県に及べり」とされるのである。すなわち現在の言葉で言い換えれば、「本書」は東京二十キロ圏内の郊外のうちの西半分を占める武蔵野台地が対象となり、そこに著しい住宅地域の拡大と工場地区としての発展を見ているからだ。
そして東京市の西郊が自然的環境、住民とその居住、土地とその利用、農業、工業、交通機関を含めて、過去から現在へとたどられ、大正期における武蔵野がクローズアップされてくる。その特色は新渡戸も指摘していたように、小田内の手になる総図、写真、挿絵、統計表、比較表、一覧表であり、それらは百四十ほどになる。私も『〈郊外〉の誕生と死』において、東京五十キロ圏の地図を示し、一九六〇年代から八〇年代にかけての急成長した都市の変化を追跡しているが、そうした地図の原型は「東京市郊外地域図」として、すでに『帝都と近郊』に提出されていたのである。それは人口の移動や増減表に関しても同様で、これらの資料掲載と分析はこの一冊から始まっていたことを教えられる。
また特筆すべきは冒頭に収録された「武蔵野台地の特相」と題された、まさに「武蔵野農村の自然と人生の縮図」のような口絵写真に象徴される多くの郊外の風景写真で、それらは八十五枚の多きに及んでいる。郷土会には後に『日本の民家』(鈴木書店、一九二二年)を上梓する今和次郎も加わっていて、そこに収録されている民家の写真は『帝都と近郊』と共通するイメージがある。それらの共通するモノクロ写真の中に込められた対象への深い思い入れと愛情こそは、小田内の著作が『日本の民家』へと与えた影響ではないだろうか。
これらの写真に留意しながら『帝都と近郊』を読んでいて連想されるのは、ベンヤミンの『パサージュ論』に写真が収録されていたら、そのイメージはかなり異なっていたはずで、もっと具体的な読み方へと誘われたかもしれないという感慨だった。それほどまでに『帝都と近郊』は豊富な地図や写真などと文章が一体化した書物となっていて、これは私見であるけれど、昭和円本時代の『日本地理大系』(改造社)や『日本地理風俗大系』(誠文堂)の範となったと思われる。
しかしその一方で、『帝都と近郊』が新渡戸の『農業本論』の第六章「農業と人口」からヒントを得ていることは、その図表の使用や内容から見て明白で、小田内はこの一章を人文地理学へと転換させ、『帝都と近郊』へと昇華させたと見ることもできよう。そのようなプロセスを経たと思われる『帝都と近郊』もまた、東京史へと長く影響を及ぼしていた。一九七九年に刊行された、大正時代にあたる、『東京百年史』第四巻の第三編「市民の生活」の第一章「府下のできごと」のうち第一節「蝕まれる田園と第二節「郊外の村々」は、その多くの図法や写真の引用からわかるように、『帝都と近郊』をベースにして執筆され、刊行後六十年を経ても、同書が「不朽の名著」のままであり続けていることを知らしめている。
それはおそらく東京史だけでなく、地方史においても同様なのではないだろうか。近代都市の誕生、産業構造の転換に伴う都市の人口増加、郊外における住宅地域の拡大現象は、東京といった首都圏だけの出来事ではなく、地方の中小都市にも及び、それは戦後の高度成長を経て、二〇世紀を通じ、続いていた現象であった。もちろんそれは『帝都と近郊』では描かれていなかった車社会の到来、ロードサイドビジネスの出現、団地やマンションといった住居の高層化を伴うものであったが、基本的な都市と郊外の構図は変わることなく、戦前戦後を通じて進行していったのである。それゆえに同書はその始まりと根幹のデータベースとして在り続けたことになり、その位置づけは現在でも変わっていないし、地図や写真や図表もきわめてリアルなものに映るし、まったく古びていない。
このような『帝都と近郊』を拙著の書き下ろし時には読んでおらず、参照できなかったことが残念だし、「序」の井上友一の『田園都市』が講談社学術文庫化されたように、この一冊も文庫化され、もう一度広く読まれることを願ってやまない。