明治三十四年、すなわち一九〇一年に出版された国木田独歩の『武蔵野』は、近代文学における郊外風景論の始まりと見なすべき一冊で、前年に刊行された徳富蘆花の『自然と人生』にしても、初出の「武蔵野」の影響を抜きにしては語れない。またそれは早くも一八九四年に刊行され、日本の風景に関してパラダイムチェンジをもたらした志賀重昂の『日本風景論』(岩波文庫)にも増して、日本近代文学のみならず、多くの分野に大きな影響と波紋をもたらしたと思われる。
(新潮文庫)
本連載に関連していえば、前回の水野葉舟の小品文にしても、あるいは内務省地方局有志編纂『田園都市』や小田内通敏の『帝都と近郊』、小林一三の郊外住宅地開発、渋沢栄一の田園都市株式会社の設立にしても、その郊外のイメージの根底には独歩の『武蔵野』の揺曳を認めることができるのではないだろうか。
あらためて日本近代文学館とほるぷ出版による『武蔵野』初版復刻を見ると、それが現在の文庫本と変わらない菊半截判、四百ページ弱の小さな本だったとわかる。表紙の上の部分に武蔵野の夕暮れと、その中で帰途についている牛にひかれた荷車が描かれている。それは独歩の友人岡落葉によるもので、このような風景のイコノロジーに通じていないが、おそらく『武蔵野』の内容と不可分なかたちで、その絵のイメージも同時代に伝播し、浸透していったと見なしていい。
『武蔵野』は小説集とされ、「武蔵野」を始めとする十八編からなり、これはほとんど言及されることがないが、二番目に置かれているのは「郊外」で、この作品は「都の近在」の村立小学校の教員とその周辺の出来事を描いた短編である。同じように「都の近在」を舞台としているのは「忘れえぬ人々」「小春」で、前者は多摩川の溝口という宿場、後者は山口県の佐伯などを背景とし、独歩特有の都会と郊外、自然と生活の接点を探り、それらを往復する精神の動きが見てとれる。それゆえに独歩は、近代文学において郊外と自然を初めて自覚的にトポロジー化させたといっていいのかもしれない。
しかしそれらの短編も興趣はつきないけれど、ここではやはり冒頭に置かれた「武蔵野」にしぼるべきだろう。これは短編というよりも長編散文詩のような趣きで、独歩が愛読したワーズワースの詩と、二葉亭四迷訳のツルゲーネフの「あいびき」とが交感、照応し、近代文学に新しい郊外の風をもたらしたと思えるからだ。
その「武蔵野」は「武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり」という一文から始まっているのだが、まずは地名辞典などを参照し、この「武蔵野」なるトポスを、ここであらためて定義しておこう。それは東京都と埼玉県にまたがる関東平野西部の台地帯をさし、北を入間川、東を荒川、西を多摩川、南を東京湾に囲まれた地域をいい、江戸時代には大規模な新田開発などが行なわれたけれど、明治、大正時代は純然たる農村であった。それは小田内の『帝都と近郊』でも見てきたばかりだ。
独歩は「武蔵野」に述べられているように、明治二十九年の秋から翌年の春にかけて、渋谷村の小さな茅屋に住んでいた。当時の渋谷村は豊多摩郡に属し、独歩が住んでいた小高い丘の上にある家は現在の松涛町の付近だったが、まだ武蔵野の農村で、東京の郊外に他ならず、田や雑木林に囲まれ、小川や水車などもあり、ツルゲーネフの「あいびき」に描かれた自然を連想させるものだった。そして独歩はそこに、昔に劣らないであろう「武蔵野の美しさ」、「美といわんよりむしろ詩趣」を見出したのである。それゆえに「秋から冬にかけて自分の見て感じたところを書いて」、今の武蔵野を描こうとするに至る。それがこの「武蔵野」という一編に他ならない。
独歩は死後に刊行の日記『欺かざるの記』における明治二十九年の九月から翌年三月にかけての武蔵野に関する記述を引用することで、「武蔵野」を始めている。その最初は九月七日のもので、「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつつ雲を払いつつ、雨降りみ、降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌めく―」とあり、それを受けて独歩は次のように続けている。
これが今の武蔵野の秋の初めである。林はまだ夏の緑のそのままでありながら空模様が夏の緑のそのままでありながら空模様が夏と全く変ってきて雨雲の南風につれて武蔵野の空低くしきりに雨を送るその晴れ間には日の光水気を帯びてかなたの林に落ちこなたの杜にかがやく。自分はしばしば思った。こんな日に武蔵野を大観することができたらいかに美しいことだろうかと。
このようにして武蔵野の秋の発端が語られ、続いて同じく日記において、秋から冬にかけての光景が召喚され、それは翌年三月の「春や襲いし、冬や遁れし」までがたどられている。
それから今の武蔵野の特色である林について言及されていく。「木は重に楢の類で冬はことごとく落葉し、春は滴るばかりの新緑萌え出づるその変化」がもたらす「春夏秋冬を通じ霞に雨に月に風に桐に時雨に雪に、緑陰に紅葉に、さまざまな光景を呈するその妙」が語られる。そして独歩はいう。この「落葉林の美」は松林などと異なり、これまで日本人にほとんど知られておらず、自分にしてもそれを理解するに至ったのは近来のことで、それは二葉亭訳の「あいびき」に教えられたと記し、「秋九月中旬というころ、一日自分がさる樺の林の中に座していたことがあッた」と始まる「あいびき」の冒頭の長い一節を挿入している。つまりロシアの樺の林と武蔵野の落葉林の「趣き」が同じであり、その中に座し、身を傾けていると、これも同じように「秋ならば林野うちより起きる音、冬ならば林野かなたに遠く響く音」が聞こえてくる。それらは「鳥の羽音、囀る声。風のそよぎ、鳴子、うそぶく、叫ぶ声。叢の䕃、林の奥にすだく虫の音。空車荷車の林を廻り、坂を下り、野路を横ぎる響き」などである。
それらの音に誘われるように、独歩は「あいびき」を携え、武蔵野の林を抜け、農家が散在する畑の中を歩き、稲が熟し黄ばんできた水田を見る。その散策の路によっては蕪村の「山は暮れ野は黄昏の薄かな」という句、あるいはワーズワースの詩を思い出す光景に出会ったりする。また様々な川についての注視も語られ、「その川が平らな田と低い林とに連絡するところの趣味は、あだかも首府と郊外と連絡するところの趣味とともに無限の意義がある」とされる。
そして東京市の「町はずれ」といっていい武蔵野について、次のようにいっている。
(……)郊外の林地田圃に突入するところの、市街ともつかず宿駅ともつかず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈している場処を描写することが、すこぶる自分の詩興を喚び起すも妙ではないか。なぜかような場処がわれらの感を惹くだろうか。自分は一言にして答えることができる。すなわちかような町はずれの光景は何となく人をして社会というものの縮図でもみるような思いをなさしむるからであろう。言葉を換えて言えば、田舎の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹するような物語が二つ三つそこらの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。さらにその特点を言えば、大都会の生活の名残りと田舎の生活の余波とがここで落ち合って、緩やかにうずを巻いているようにも思われる。
ここで独歩は「町はずれ」の「郊外」である武蔵野も「社会というものの縮図」に加え、「一種の生活と一種の自然」の配合を見出し、それが「大都会の生活の名残りと田舎の生活の余波」の出会いで、様々な物語が隠れていることを発見したと語っているのだ。しかもそれは独歩もその訳を挙げているように、二葉亭四迷訳のツルゲーネフ「あいびき」に触発されたもので、この「あいびき」は一八八八年に『国民之友』に発表され、一八九六年に二葉亭の翻訳集『片恋』(春陽堂)に収録刊行に至っている。これらの二編の「あいびき」が岩波書店版『二葉亭四迷全集』第一巻に収録され、四迷が単行本化に当たって、かなりの改訳をしていることがわかる。
そこで「武蔵野」における「あいびき」の引用部分を照らし合わせてみると、それは『国民之友』掲載の訳文と同じであることから、独歩が『国民之友』バックナンバーをずっと手元におき、「あいびき」を長きにわたって愛読してきたことが推測される。したがって『国民之友』編集者となり、一八九八年に同紙に「武蔵野」を「今の武蔵野」として連載したこともつながっているのである。
一方で「あいびき」は一八五二年に刊行された『猟人日記』 の一章で、この一冊は猟人の目を通して描かれたロシアの果てしなく広がる森林、畑、川、沼などの美しい自然を背景とする農奴制下の地主や農民の姿であり、それらは『武蔵野』と同様に、短編小説というよりもオリジナルな紀行的散文詩の趣きに包まれていた。そしてここに表出する自然描写は日本の独歩のみならず、十九世紀後半のフランスのフローベールやゾラにも引き継がれたと思われる。
この事実からツルゲーネフ「あいびき」が二葉亭訳を通じて、独歩と「武蔵野」の文体と内容へと引き継がれていったことがわかる。それは一八九〇年前後から一九〇〇年前後にかけてで、前述したように『武蔵野』の単行本化は一九〇一年であるので、この一冊は静かに読み継がれ、武蔵野に象徴される郊外に関して、新しいイメージを寄与していったにちがいない。
その一方で、同時代のイギリスでハワードの『明日の田園都市』が出版され、田園都市協会が設立され、翌年には最初の田園都市レッチワースの創設が始まり、それは欧米へと伝播していく。日本においても〇七年に内務省地方局有志編纂『田園都市』が刊行され、小林一三は〇九年には阪急沿線に「理想的郊外生活の新住宅地」の開発販売を始めつつあった。渋沢栄一は一八年に田園都市株式会社を設立し、それに小林も加わり、郊外高級住宅地としての田園調布の開発造成に至るのである。文学青年だった小林が独歩の『武蔵野』を読んでいなかったはずもなく、また田園調布株式会社の開発は主として独歩の「武蔵野」を中心にして行なわれていく。
独歩の『武蔵野』によって新しい郊外が発見され、そのイメージが造型され、文学を通じて社会に伝播し、それを受けて小林や渋沢による現実の郊外の開発が始まっていったと見なすこともできよう。