出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話428 長谷川伸、新小説社、『大衆文芸』

瞼うへ下合せりや闇に湧いて出てくる母の顔

                              
前回に続き、長谷川伸が引き継いだ第三次『大衆文芸』のことも書いておこう。

長谷川伸をあらためて認識したのは、昭和五十二年に旺文社文庫に収録された『狼』を読んでからのことだった。この京の大店に生まれ、身を持ち崩し、自ら「狼」と名乗り、親分と呼ばれるようになった足尾九兵衛の悪にまみれた懺悔録は、史料に裏打ちされた幕末から明治にかけての裏面史でもあり、長谷川の並々ならぬ作家としての力量を知らしめる一冊だった。

この時代の旺文社文庫の選書は異彩を放ち、解説も含めて注目すべきものがあった。しかしそれがたたったのか、売れ行きはよくなかったようで、旺文社は文庫の廃刊を決定し、膨大な書店在庫を返品させ、すべてを断裁処分にしてしまった。今になって考えてみても、無謀な処置、機械的な文化破壊であり、すでにこの頃から旺文社は出版社としての立場を放棄し始めていたのだろう。

その後も長谷川の『日本敵討ち異相』(中公文庫)などの資料に基づく歴史物を読み続けてきたが、数年前に彼の稀覯本を入手したのである。それは帙入りの和本詩集『白夜低唱』で、昭和八年に長谷川家蔵版として四百部刊行され、そのうちの百部が一円二十銭で、発行者を島源四郎とする新小説社から出されていて、それを古本屋で見つけたのだ。長谷川はその「序」に書いている。

日本敵討ち異相

 この一冊に採りあげた唄は都々逸といふ名称で呼ばれてきた一種の詩形に拠つた私の作である。都々逸といふ呼称のもとに作られはしたが、初期数年を除く他は都々逸の世界に甘んじなかつた。
 「大衆詩都々逸」(大正十五年十二月「サンデー毎日」)その他を書いて暫定呼称を大衆詩としてもいいとして刷新よりも創始に努め、幸ひに新人の輩出によつて「俗体の詩」(昭和六年二月「文芸春秋」)に即近の傾向を紹介する処まで来た。
 私はしかし三年以来おもふ処あつて唄を廃止し、今といへども再び唄を作るの意義をもつていない。

これは私の推測であるが、昭和五年に長谷川は同書収録の「思母」を戯曲「瞼の母」へと昇華させたことで、「三年以来おもふ処あつて唄を廃止し」、つまり「唄の訣れ」を決意し、また八年に永年探し求めてきた「瞼の母」と四十七年ぶりに再会し、詩作のモチーフが「思母」にあったことを認識し、記念碑としての『白夜低唱』の刊行に踏み切ったのではないだろうか。長谷川の死後に刊行された横倉辰次編『長谷川伸小説戯曲作法』(同成社)にその抄録がある。
瞼の母 (「瞼の母」『長谷川伸傑作選』所収、国書刊行会

さてここで『白夜低唱』を刊行した新小説社の島源四郎にふれなければならない。島は大正十四年に江戸川乱歩たちが創刊した『探偵趣味』の編集発行人を務めた人物で、乱歩の『探偵小説四十年』には「春陽堂の番頭、島源四郎君」として、姿を見せている。これには若干の説明が必要で、『探偵趣味』は当時大阪在住だった乱歩の関係から、大阪のサンデーニュース社が発行所だったが、同十五年から春陽堂がそれを引き受けるようになり、島が担当することになったのであろう。そういえば、本連載82の大槻憲二たちの『フロイド精神分析学全集』の発行人も島だった。

その後の詳しい経緯は不明だが、昭和十四年に島は第三次『大衆文芸』を復刊することになる。第一次は前回述べたとおりだが、同六年に平山蘆江が第二次『大衆文芸』を八冊刊行し、経営難のために休刊している。その後を受けて、第三次『大衆文芸』が立ち上がっている。

それは長谷川を囲む劇作研究会や小説研究会が、やはり彼を中心とする新鷹会と合流して始まった大衆小説雑誌と見なせよう。それゆえに長谷川をめぐる様々な会の機関誌的な色彩が強く、またいくつかの既述によれば、島は長谷川の義弟であることから、新小説社を興して『大衆文芸』の刊行に従事したようだ。

長谷川自身も『大衆文芸』に多くの力作を寄せ、『狼』もそのうちの一作である。また若手作家たちも同様で、村上元三、平岩弓枝、池波正太郎など十人に及ぶ直木賞作家を誕生させている。そうした意味において、長谷川の『大衆文芸』は、丹羽文雄の『文学者』と同じ役割を果たしたといっていいだろう。また新小説社は『大衆文芸』だけでなく、戦後も単行本を刊行し、手元にある長谷川の昭和四十三年の『相楽総三とその同志』は丁寧な造本で、彼の著書らしい端正さを示している。

相楽総三とその同志 相楽総三とその同志 (中公文庫)

それからたまたま『大衆文芸』の昭和三十八年八月号の「長谷川伸先生追悼号」も入手している。長谷川を送る一冊で、門下生を始めとする七十人の及ぶ人々が追悼文を寄せ、故人を偲び、ひとつの時代が終わったかのような雰囲気を漂わせている。巻末の「編集者の手帖」は島源四郎名で、次のように記されていた。

 私が昭和十四年三月に『大衆文芸』を復刊しまして、今日まで悪戦苦闘しながら編集して参りましたが、今月号をもつて一先ずこの仕事から離れることになりました。『大衆文芸』復刊以後蔭になり、陽になりして、物心両面から御援助頂きました長谷川先生が亡くなり、(中略)この辺で一応の責任を解いて頂いた訳けです。

そして『大衆文芸』は新鷹会編集で、島の新小説社からの発行は従来通りで続刊したが、それほど長く続けらなかったようだ。おそらく同年に創刊された『小説現代』に始まる第二次中間小説時代を迎え、同人誌的『大衆文芸』も新小説社も、退場せざるを得なかったように思われる。
なお『出版文化人物事典』において、島と新小説社も立項に至っている。

出版文化人物事典

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら