出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話430 岡本経一『私のあとがき帖』と柴田宵曲

大東出版社の「大東名著選」のことがさらに詳しく書かれているのではないかと思い、昭和五十五年に出された岡本経一『私のあとがき帖』青蛙房)を読んでみた。するとこの本が青蛙房の二十五周年記念とされ、『私のあとがき帖』と題されているだけあって、経一が養子に入った岡本家の系譜、それゆえに義父にあたる岡本綺堂の生涯と作品、綺堂の作品の「あとがき」を主とした青蛙房の出版史と刊行物、及び著者たちの話題に加え、岡本経一自身の出版編集者史にもなっているとわかる。そして知らなかった出版史の様々な事実が何気なく書かれていて、興味が尽きない。

私のあとがき帖 (オンデマンド版)

岡本経一は劇作家の額田六福の紹介で、大正十三年に十六歳で綺堂の内弟子となり、昭和六年に法政大学高師部国語漢文科を卒えたが、就職難の時代だったので、綺堂監修の戯曲誌『舞台』の編集を手伝うようになった。そして同九年に改造社の円本『現代日本文学全集』の編集主任だった塩谷晴如が『雪之丞変化』で人気絶頂の三上於菟吉に引っ張られ、サイレン社という出版社を興し、その助手に拾われた。サイレン社は三上と塩谷の見識と采配によって、先鞭をつけた話題の本を多く出したが、それらは儲かる本ではなく、二年後に三上は手を引いてしまったことで、塩谷は儲けようとして「大衆物」を出し始めた。しかし「やさしそうで最もむずかしい」のが「大衆物」で、高利貸にたより、結局は破綻に追いやられてしまったようだ。
雪之丞変化

岡本はサイレン社の後始末のために高利貸との折衝に明け暮れていたが、綺堂は最年少で最後の弟子の窮境を心配し、養子に迎え、ここで旧姓の森部経一は岡本を名乗ることになり、病床にあった綺堂も看取り、大東出版社へも勤めるようになったのである。それは昭和十四年だった。岡本は大東出版社の岩野真雄とそこでの仕事のことについて、次のように書いている。

 岩野さんは鷹揚で、宗教以外の一般書はみんな私に任せてくれた。師父を失った憂悶を追っ払うように、大東名著選、東亞文化双書、支那文化史双書、アカネ双書から翻訳物や大衆物、時局物と手広く本を出しまくった。六福先生の著書を五、六冊出せたのも、この期間のことである。奴は奴でも岡本奴だぞウ。ひとさまに言うことではなく、私自身に言い聞かせる自戒の言葉であった。

この岡本の最後の弁はそれこそ綺堂の名に恥じない本を企画編集するという「自戒の言葉」であり、それは青蛙房にまで引き継がれた出版理念と見なせるだろう。

その大東出版社時代のことが『私のあとがき帖』の「俳人柴田宵曲」にさらに詳しく描かれている。それによれば、岡本は「大東名著選」の三田村鳶魚を出したことで、鳶魚の関係から柴田宵曲と知り合い、林若樹『集古随筆』、内藤鳴雪の『俳話』、大野静方の『浮世絵と版画』などは柴田が編集に携わっている。その柴田について、著書の『明治の話題』を刊行した昭和三十八年一月の日付で、特異な才能も含めたプロフィルが描かれている。それを引いておこう。
私のあとがき帖 (ちくま学芸文庫

現在であれば、小沢書店から「略年譜」収録の柴田宵曲文集』全八巻が刊行され、岩波文庫にも『古句を観る』『評伝正岡子規』『蕉門の人々』森銑三との共著『書物』が収録され、その名前と著作は知られているが、当時は一部の人々だけが知っている存在であり、きわめて早いまとまった紹介だと思われるからだ。

古句を観る 評伝正岡子規蕉門の人々書物

 柴田宵曲、名は泰助、明治三十年九月二日、日本橋久松町の商家に生まれた。中学へ入学した頃に家運傾き、忽ち学業を廃す。大正七年、「ホトトギス」入社、二十二歳。(中略)
 ホトトギス入社早々に、其角研究が始まり、句集「五元集」の輪講を誌上に載せようとした。寒川鼠骨、内藤鳴雪三田村鳶魚、林若樹、山中共古山崎楽堂、木村仙秀などのメンバーである。速記を頼むと費用が嵩むので社員にやらせようとしたが、誰も引き受けない。お鉢がまわって新米記者の柴田さんが押しつけられた。
 この難役をしとげたのである。柴田さんの筆記方法は、話を聞きながら単にメモを採るだけで、それを原稿に仕上げるのだ。未経験の二十二歳の青年がそれに及第したということは、知識だけでなしに、天賦の感と才だろうと思われる。

本連載422でも「春陽堂『東海道中膝栗毛輪講』」に言及しているが、この三巻からなら大冊も、柴田の手になるものであったのだ。しかしそこに柴田の名前は記されていない。ほぼ同時代に刊行されている三田村鳶魚編『西鶴好色五人女輪講』(龍生堂書店)にもその名は見当たらない。しかし柴田の才の開花があって、テープ録音なぞまだ想像もできない時代に、「輪講」という編集と出版が可能になったのは特筆すべきことだと思われる。

岡本は「この成功が柴田さんの運命を決めた」と書いているように、戦後に再び柴田とコンビを組み、「三田村鳶魚昔ばなし」全二十巻、こちらも既述した「輪講双書」全七巻を刊行している。後書には『西鶴好色五人女輪講』もも入っている。昭和になってからの鳶魚本も「輪講」もすべてが柴田による筆記であった。とすれば、中央公論社の『三田村鳶魚全集』も岡本と柴田のコンビによる仕事をベースに成立したことになる。この事実は大手出版社の全集の前提として、それらの範になる小出版社の仕事があったことを教えてくれる。

三田村鳶魚全集
なおこの一文を書いている時に、岡本の訃報が伝えられた。享年一〇一歳、その死はまたしても出版のひとつの時代が終わったことを告げているのだろう。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら